切り取られた金網の箱の中で、握った拳を叩き付ける。隙を見せた鳩尾へ。浮いた上体を蹴りあげてから左頬をぶっ飛ばす。踞れば容赦なくまた蹴る。
 そのうち踞ったまま動かなくなった。死んではいない。気を失っただけだろう。
 「勝者!ロロノア・ゾロ!」
 金網が開かれて道ができる。熱気と溜息の混じる観客席をすりぬけて控え室までを辿って行く。
 腕を競う試合は大衆娯楽。選手は半ば命がけで戦っているが金網の外にいる者には中身のことなど賭けの対象でしかない。試合が終わってしまえば興味の欠片もないはずだ。それでもゾロは控え室に入るまでは気を抜かない。勝ち続けている王者に不満を持っている輩もいるからだ。
 扉が閉まる。ゆっくりと息を吐いた。
 自分の靴先に目を落とす。
 今日は刀を抜かなかった。抜けなかったというべきか。素手の格下相手ではつまらなすぎて振るう気にもならなかったのだ。おかげで手を痛めた。ゾロはそっと右手の拳を撫でる。皮が破れて血が滲んでいた。
 「おつかれさん」
 知る声に廊下に続くドアを見た。やはり知る姿が立っていた。ゾロは息を飲む。
 「…なんでここに……」
 煙草を銜えながらサンジはくすりと笑んだ。けれど目は笑っていない。
 歩を進めて近づくと煙のにおいがした。
 「迎えに来た」
 「店は」
 「closeだよ」
 簡潔な応酬の中でもお互いはお互いを見ている。見つめるその目線の硬質さと熱さに、ゾロは言葉を失う。
 確固たる意思があるのだと目で語っている。
 ゾロは腰の辺りが歓喜でざわつくような気になった。これから発されるであろう台詞は望んだものであるはずだ。
 そうでなければ、サンジが足を運ぶ必要はない。
 用済みの相手を追い返すように冷たい眼差しで捨ててしまえばいいのだから。
 「何の用だ」
 ゾロは尋ねた。些細な意味がこれ以上ないほど重かった。
 サンジは全て解っているのか、やはり微笑んだまま煙草を踏み消した。
 「話があるんだ」





 路地裏はいつも通り猥雑で湿っていた。二人はそこを通り過ぎて店の前を通る。飯場は酒も出しているのでまだ客が残っているのかもしれない。サンジ以外の従業員が捌いているのだろう。しかし取手には閉店の札がかかっていた。
 その建物の裏手にある集合住宅の二階がサンジの部屋だ。
 灯りはつけなかった。
 「ゾロ」
 サンジが抱きしめてきて動けなくなったからだ。思ったよりもずっと強いその力は今まで隠れていたサンジの激情そのもののような気がした。
 「行っちまうのかよ」
 振り向いた体勢のまま体当たりするように抱き竦められている。頭ごと押し付けてきているせいで声はくぐもっていた。それは泣いているようにすら聞こえて、ゾロは動揺した。ゾロの知っているサンジは涙なんて見せた事はない。泣く女を困ったような顔で、しかし冷たく突き放したことならあったか。ともかく、こんな縋るような台詞を言うような男ではないはずだ。
 大体にして言われている意味もわからない。
 ゾロが考えあぐねている間にサンジは顔をあげた。
 その眼はあまりにも切羽詰まっていた。
 「何言ってんだ?どこに行くってんだよ」
 ゾロは刑期の六十数年、このD区から出る事ができない。
 「御前試合に出るんだろう?」
 「そりゃ、出ねえと剥奪されちまうかもしんねえからな」
 他の試合ならいざ知らず、国で一番偉い総統様が観に来るような試合を欠場してしまえば王座を抹消されかねない。ゾロは保持のために出場するつもりだった。
 「嫌だ」
 サンジの否定はゾロにとって青天の霹靂だった。


 「お前が出れば特赦が下りる」
 特赦が下りれば何十年残っていようと刑期は消えてしまう。つまりゾロを縛るものは何も無くなる。忌々しい爆弾首輪も外されるだろう。
 ゾロは震えた。
 「まさか」
 サンジは今までそんなものを恐れていた?
 いつか、ゾロが刑期を消化してこの国から出ていく日を思っていたのだと?
 サンジが手段を選ばない人種だというのは知っている。目的のためなら痛みも惜しまない。腹を空かせた奴には自分の最後のパンだって与えてやる。俺が殺せと願えば俺を殺すだろう。それが罪に問われ逮捕されようとも。
 だから?
 「お前……そのために、わざわざ俺に見せつけてたってことか」
 ゾロの気持ちなんかお見通しで、引き止めるためだけに自分を利用していた?
 ゾロが引き返せないほどサンジのことが必要になればなるほど、その罠は深みに嵌る。
 現実にゾロはサンジが欲しいから歯痒くて不快でもサンジの振る舞いを見て見ぬ振りをしてきたのだった。
 「俺が惚れてるのも知ってたのか」
 「ああ」
 ニヤリと笑うその眼は傷ついたように沈んでいたが、ともかく、笑っていた。
 「わからないわけねェだろ?テメェはわかりやすい」
 指先が強ばった。ゾロはその指で金髪頭を掴んで自分の胸に押し付ける。心臓がガンガン鳴っているが聞こえたって構わない。筋肉でできているような胸板に大人しく添う頭に呟きを落とす。
 「…てめえはわかりにくすぎる……」
 単純なことだ。
 「行くなって言えばいいだけだろうが、それを、遠回しなことしやがって!」
 顔を上げて、今度こそ笑ったサンジの顔は微笑みに近かった。
 「言えたら苦労しねェよ」







***





 満員の会場のVIP席にはキスレブ帝国のトップが居るはずだ。
 最後の一振りを相手に落とした後、ゾロはそこを見上げた。
 「勝者!ロロノア・ゾロ!」
 立ち上がって拍手している中年男にとってこんな試合など余興のひとつに過ぎないのだろう。そして場に勝ち残ったゾロが誰であろうと関係ない。
 ただ定例に従って指示を下す。
 「囚人であるチャンピオンには特赦が下されます!」
 司会が大仰に言い放つと観衆が沸き立つ。ゾロは相変わらず上を見据えたままだったが総統と目が合った気がしたのでとりあえず笑っておいた。できるだけ不敵に見えるように。
 てめえなんかを喜ばせるために戦ってるんじゃねえ。
 俺は俺のためだ。
 そしてそのまま金網の外へ出た。




 真夜中、部屋に辿り着くと珍しくベッドに中身があった。しかも本を読みながら煙草を吸っている。起きていることに少し驚いた。
 「店はどうした?」
 「御前試合だから不況でね。早めに上がらせてもらった」
 寄れば煙草は灰皿に押し付けられた。本はパタリと閉じてベッドサイドに置かれた。今晩はそれらも用済みのようだ。
 「来いよ」
 「かわいくねえ…」
 口調は渋々、けれどゾロの体は正直にサンジを抱きしめる。
 「待ってたって言え」
 「勝ったご褒美だ。………待ってた、ずっと」
 首筋からは煙草のにおいに混じって石鹸のにおいがした。けれど髪は乾いている。口づけるとその体は簡単に撓んだ。収まるように抱きしめるとひどく温かくて刀よりもずっと抱き心地がいい。
 サンジが呼吸しているのが体を通して感じられる。生きている。
 大切な体の一部になったようだった。
 「テメエが俺なんかに引っかかっちまうのを、ずーっと待ってたんだ」
 ゾロはどくどくと波打つ鼓動とサンジの声だけを聞いていた。
 「お前だって俺に引っかかってんだろうが」
 「そうだっけ?」
 そう言って笑ったであろうサンジの顔はゾロには見えなかった。





***




 「だぁから!違ェっつってんだろーが!そっちは東だ!」
 背後からの罵声に足を止めるとすぐに腰を蹴られた。
 「ノアトゥンに帰ってどうすんだ!こンのクソ方向音痴!」
 ゾロだって東の逆が西なのはわかっている。回れ右して進みだすと今度は何も飛んでこなかった。
 「これじゃあ本当に着くかわかんねェな」
 「言ったじゃねェか。覚えてねえって」
 そのクソ方向音痴は幼い頃に捨てた生まれ故郷の名前すら覚えていなかった。
 進む道はずいぶん向こうまで草むらが続いている。山間の奥に辛うじて黄色いような大地が見え隠れしていた。風は程よい温かさだがこれから渡る砂漠では気候に期待はできない。ゾロは久方ぶりにすうすうする首筋を撫でた。
 「まあアヴェまで行きゃあ見慣れた所だろうよ。っつっても俺ァ見たことねえから…多分、だが」
 ライターの点火音がした。煙草に火をつけたサンジはすぐに追いついてゾロの隣を歩く。
 「つーか………国境、どうするよ?」
 スーツにリュックサックというアンバランスな旅支度をしているサンジがすんなりと通してもらえる道理はない。ただでさえ戦争の真っ最中なのだ。きっと前線基地でもあるに違いない。
 「さあ?俺がいっても通れなかったら斬っちまえばいいよ」
 そうすれば国も追われるのかもしれない。また犯罪者として牢獄に入る羽目になるかもしれない。けれどゾロにはそれすらも良い案に思えた。
 サンジが付いてくるのなら、どこだって生きていけるに違いない。





2←

おわり