必要最低限



 「勝者!ロロノア・ゾロ!」

 大歓声を尻目にゾロはさっさと控え室に戻る。荷物は何も持っていない。腰に差す三本の刀だけが彼の所持品だ。誰もいない廊下を一人進み、出入口で警備兵のチェックを受けた。
 「お前が来てから賭けが成立しないな」
 「弱ェ奴しかいねェからだろ」
 肩から下へ降りていく手を他人事のように見つめ、ゾロはつまらなそうに言った。
 実際ゾロはここのところの勝負に嫌気が差していた。
 「ああ…だから最近あまり出場しなくなったのか?」
 手は腰から脚へと降りていく。しゃがみこんだ兵士の旋毛を見ながら、今なら簡単に斬り殺せるな、と思うに留めた。
 「それもあるが、面倒なだけだ」
 ボディチェックを終えゾロは闘技場を出た。



***



 「いらっしゃ――って何だ、ゾロか」
 「俺で悪かったな」
 ドアを開けると特徴的なぐるぐる眉毛を上げたサンジが出迎えた。両手に皿を持っている。接客中でも煙草は銜えたままだ。
 どっかりとカウンター席に着くとサンジは黙って酒を出した。
 「金あんのかよ」
 「今はねぇ。後で取ってくる」
 「ツケ以上に貯まりまくってんだろうなァ。いいね、チャンピオン様は」
 そう言うくせにサンジはまったく羨ましそうな口振りではない。どうでもいい世間話。有り体な酒場の噂話でも流すようにゾロをからかっている。
 ゾロは出された酒に口をつけながらサンジのほうをちらりと見た。
 「テメェも出りゃあいい」
 「だったら現チャンピオンと当たってみたいね」
 挑発的に笑うとゾロの前にドンッと丼を置いた。




 サンジはこの地区の飯場で働いている従業員だ。元々はA区に暮らしていたそうだが何の理由か、このD区に住んでいる。腕っ節はそこらへんの奴よりも強く、料理が美味い。ゾロはそのサンジの家に転がり込んでいた。
 そしてサンジのベッドで眠る。
 飯場兼酒場で働く彼は夜のほとんどを仕事に費やしているので夜中を過ぎるまでは絶対に帰ってこないのだった。
 一人で踞って眠ると下らないことばかり思い出す。
 閉塞的な生活、手応えの無い戦い、塵ほどには感じてしまう孤独。そうした、生きているのに殺されているような暮らしはゾロの何かを狂わせる。普段は石の下に潜む虫のように隠れている性が強烈に疼くのだ。
 そんなことはここに来るまで感じた事はなかったのに。
 無性に人を殺したくなる。
 ゾロは踞ったまま思った。
 早くサンジが帰ってくればいい。孤独が薄れればこの渇望も少しはマシになるだろう。律せずにサンジを殺しそうになっても、奴なら俺を殺すだろう。心配なんかいらない。
 ゾロは弱い相手を無駄に殺すのは趣味じゃないのだ。それなのにじわじわと湧いてしまう残虐な衝動がある。弱者をいたぶってやりたいような気持ち。
 試合中に相手を殺すのは簡単だ。ちょっと間違えればいい。しかしそれで満足できるとは到底思えなかった。少しくらい喉の渇きを癒したって余計に水が飲みたくなるだけだろう。
 薄暗い室内で踞ったまま、ゾロは刀を抱きしめてみた。まるでそれが一番大切なものであるかのように。自分自身を抱くように。



 眠りの中でサンジの声を聞いて、ゾロは目覚めようと思った。けれど目は開かずに耳と脳味噌だけが覚醒した。
 「――ふっ……んん、あっ…そこっ、いい…」
 同時にぐちゅぐちゅと湿った音がする。それと誰かの荒い息。
 ふ、とゾロが目を開けるとやっぱりそこはサンジのベッドの上だった。一人、刀を抱えていたときのまま。
 視界の向こう側にはサンジの金髪頭がソファの端から見える。体はソファの背に隠れて見えないが生白い足がふらふらと浮いていた。その間には見知らぬ男が必死そうに動いている。
 「ああっ、あッ……」
 硬直したように止まるサンジ。そのすぐあとに男は気持ち良さげに力を抜いた。果てたのだろう。
 見届けてゾロは再び目を閉じる。
 二人が離れる気配を感じて、また目を開けた。
 視界にはさっさと立ち上がるサンジがいた。そしてそれを引き止めようと腕を引く男がいた。
 「もう一回…」
 「離せよ。ルール違反だ」
 見下ろすサンジの目はきっと凍りつくように冷たい。先程までの甘い声をまったく知らないような、斬り捨てるような台詞。サンジにとって今のセックスは性欲処理以下の意味しかない。その相手になどどうして優しくしてやる?
 「漏れねえようにちゃ〜んと後片付けしろよ?ガキじゃねェんだから。で、とっとと帰れ」
 口調も目線も馬鹿にしきっている。男は何も言わない。ソファに隠れているせいでその反応はゾロには伺い知れなかった。
 裸のまま、サンジがバスルームへ消えた。すると苛ついたように男がソファを殴った。
 自分の意のままにできない、だからといって力づくにもできずに男は憤懣を持て余していた。それには理由がある。いくらサンジのことを喉から手が出るほど欲しても彼は男のものにはならない。彼はこの男よりもずっと強いからだ。つまりこの状況はサンジの作り上げたもので、男はもう用済みなのだった。
 ゾロは音も立てずにそっと近寄る。ソファの背もたれのすぐ後ろまで行っても男は気付かなかった。薄暗い室内はそれでも真っ暗なわけではない。
 さっきから眠っていた塊に気付いていたのだろうか。いやそれはない。知っていて呑気に腰を振っていられはしないだろう。きっと自分は景色の一部に溶け込んでいたに違いない。そう思ってゾロは笑った。その笑みは薄っぺらくて誰の目にも愉快そうには見えない。
 ちき、と刀が鳴った。
 「ここからは俺の時間だ。さっさと出てけ」
 切っ先を頬に突きつけられた男はぎこちなくこちらに目玉だけを向けた。やっと気付いたらしい。その時のブレで刺さったのか黒っぽく見える血が一滴たれた。
 「あんた……ロロノア…」
 「わかってんなら消えろ」
 男の目の色が変わった。恐怖に染まったのだ。それを確認したゾロは刀をおろした。すると金縛りが解けたように男は部屋を出ていった。
 ちらりと見るとゴミ箱にはしっかり使用済みのゴムが捨ててあった。脱兎のように逃げて行ってもガキではなかったようだ。


 バスルームの磨りガラス越しに肌色が見えている。湯気で掠れたように見える色合いがきれいだ。ゾロは触れるつもりでガラスの表面に手のひらを置いた。温度差を感じる前に中から声がした。
 「覗きか?」
 それを契機にゾロはさっさと服を脱ぎ捨てて扉を開ける。もわりとする蒸気を無視して一歩踏み入れるとすぐにサンジの体にぶつかった。ついでに熱いシャワーにも。
 飛沫を受けながらその体を抱きしめる。同じ身長をしっかりと腕に納めてそっと息を吐いた。安堵の溜息だった。
 「おいおい、懐いちゃってどうしたよ?」
 ざあざあ流れる湯がゾロの体を濡らしていく。サンジと同じ温度になる。くっついたところが温かかった。回した腕を解くとゆっくりと体がゾロのほうを向いた。
 「何だよ」
 何も言いたい事はない。ゾロにはその権利があるような気はしなかった。
 責めたり尋ねたりできればいいのかもしれない。むしろサンジはそうしてほしいのだろうと、知っていたが。
 「………。」
 何一つ言葉にはできずにいた。




 642311――ゾロがこの国で与えられた囚人番号だ。それは首にくくりつけられた爆弾に印字されている。ナンバリングされているそれを本人が読むことはない。取れば爆発する首輪を外せるときには番号は必要なくなっているからだ。
 それでもサンジが読み上げた事があるから、ゾロは自分に名前以外の識別方法があるのを知っている。役に立つことはないが。
 ロク、ヨン、ニ、サン、イチ、イチ…。
 何の味もない数字を覚えてしまったのは何故だろう。
 自問自答しながら、ゾロはその答えをぼんやりと思い浮かべる。
 己は無駄に物事を記憶するほうではない。自分の名前はひとつきりで、与えられた識別番号に頓着する質でもない。勝手に犯罪者と決められ勝手につけられた印など煩わしい以外に価値はない。押し付けられた罪のせいでこの国を出る事すらままならない、忌まわしい数字。そんなものを大事そうに覚えている。
 隣ですうすうと眠る男を見下ろして、そっとその肌に触れる。温かなそれがゾロには愛おしい。無くしたくない。触れていたい。そこにあってほしい。
 「サンジ…」
 朝日が世界を照らし始めたその瞬間だけは、素直に欲しいと口に出せる。重いその名ですらこんなに簡単に零れてしまうというのに。
 両の手が血で染まっていても愛する事はできるらしい。朝の静寂だけがゾロにそれを教えてくれる。
 そして、その正直な呟きを眠っている男が聞くことはない。





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