一度だけ手に入れた身体は容易く俺の手を躱して去って行った。その真意は読み取るまでも無い。
サンジが躊躇する理由は本人も言っている通り、廓から離れる事を恐れているのだろう。遊女の様に金ではなく育ててもらった義理で自ら縛られている。好きで居座っているものを俺が引っ張った程度では立ち上がるわけもない。
背中を押して遣れば歩き出せるのかもしれない。つまり、俺以外の誰かが協力しなければあの男は俺の元にはやって来ない。
たとえば、身体だけ欲しいなら、サンジの言う通りに見世で金を支払えば差し出すだろう。それだけで抱けば撓む白は手に入る。けれど俺が欲しいのは、白い肌ではなく、照れて俯いたり虚勢を張ってみたり、弱く笑いながら手を広げるような、サンジ自体なのだ。
何度も来た離れ、庭を眺めていると遣り手が襖を開けた。
「何かしら。あの子に言えない相談?」
「ああ…」
「ナミが、文を届けさせたんでしょう?うまくいったのね」
「うまく…まあ、そうだな。抱いたが逃げられちまった」
予想していたのか遣り手は小さく笑った。俺はばつの悪さに後ろ頭を掻きながら、細められた黒い瞳を窺い見る。その眼は感情を読み取らせず謎めいて輝くばかり。闇夜に似たその色は廓の女に相応しい様な気がした。
「あいつは幾らだ」
俺の問いに一層その笑みは深くなる。
「これも予想してたか」
「いいえ。貴方はそういう手段がお嫌いかと思っていたのだけれど、違ったかしら」
想像通り、俺はこんな手を使いたくは無かった。遊女相手なら話は別だが、奴は只の男衆。金で片を付けようというのは力づくで手に入れるのと大差無い。自分に気の無い相手を力で手に入れるのは卑劣だ。俺にはできそうもない。
しかし本人が言ったのだ。
「あの男は此処に居なきゃならねェと思っていやがる。見世への恩義に金を払えと言われた」
「そう…」
「俺にはそんな事は馬鹿馬鹿しいと思うが、奴には仕方ねえことなんだろう」
「あの子には此処が全てなのよ。自分の幸せなど考えた事も無いのかもしれない」
「だから出て行けと言ってやれ。あいつの身請け金は出す」
買われた子供でないサンジが幾らなのかは分からない。此処に貢献した分を払えばいいと言っても換算する術も無い。だが幾らだろうと出すつもりだ。金や手間と秤に掛けられるほど、俺にはサンジは安くないのだから。
「……なら、取引ね」
遣り手の笑みは妖艶だった。
夜を背後にしているサンジの肌色はやはり白い。遣り手に促され襖を閉めるとそっと腰を下ろす。
何か言うよりも先に、遣り手が口を開いた。
「サンジ、貴方は今から、この方の物よ。見世から出て行って頂戴」
「なっ…俺はまだ!そんな…」
食って掛かる勢いで叫ぶ。
「てめえが言ったんだろう。見世で買えと」
今やっと気付いたように俺のほうを見るが、それも勢いが有り過ぎて睨みつけるのとそう変わらない。怒りと戸惑いを混ぜた目の色でじっと見ている。
感情が表れ易いその瞳は魅力的で、俺は会う度に眺めてしまう。今日も例外ではない。
「俺は一時じゃ満足できねえ。買って済むなら手元に置いておく」
遊女でも無いのに見世に居る間しか会えないのは、互いに想い合っているのに理不尽すぎる。この欲求が俺の独り善がりではないのは、贔屓目で無くとも明らか。そう解っているから遣り手も簡単に渡してくれるのだろう。
要するに、問題はサンジの強情だけなのだ。
「俺は物じゃねェ」
「物扱いしろっつったのはてめぇだろうが」
「ンなこと言ってねえ!」
「買うんだからおんなじだろ!」
と、そこまで叫んだところで遣り手が仲裁に入った。
「貴方達、口喧嘩はそのあたりにしてくれないかしら?」
笑っているのか怒っているのかも読み取らせない、その眼でサンジをじっと見詰める。熱を諌められたのか、それで先刻までの勢いを全く無くして、サンジは呟いた。
「大旦那は…」
「何処へなりと行け、と仰っていたわ」
「だけど」
言いかけたサンジを遮って遣り手は言を続ける。その顔は母親の様に微笑んでいた。
「貴方が幸せに成れればそれが良いのよ」
白い手を引く。朝方の光に照らされながら俺達は廓の外を歩いていた。
昨晩、離れとサンジを一晩借りる旨を伝えると両者は違った反応を見せた。俺はそれを都合の良いだけに取り、男の首根っこを掴んで、襖を閉める遣り手を見送った。勿論、それからもサンジは愚図っていたがなあなあに流していたらそのうち諦めて俺に寄り掛かってきた。
「おめェが嫌だっつうなら…」
そう言いかけると、
「煙草、取ってくる」
と言い残して離れを出た。しばらくして戻ってきたサンジは大きめの風呂敷包みを一つ、抱えていた。
「その荷物は何だ?」
今度は向かいにどっかり腰を下ろして、手には煙管を持っている。そして強い瞳を俺に向けた。睨みつけるに近い。
「旅支度。…というか持っていきたいモンなんざ殆ど無かった」
風呂敷には廓主から贈られた一張羅が入っているだけだという。
「俺の持ち物はこれっぽっちだ」
くるりと振った煙管は上等品らしく彫り込まれた模様が煌びやかだ。廓の男衆如きが普通持っている品ではない。道楽者の金持ちか余程の洒落者で無ければ持っていないだろう。
サンジは廓の為に生きてきた男だ。嗜好すらも恩義の為に変えてしまおうとすら、しそうな男だ。それが自ら進んでこの煙管を持つとは思えなかった。
「女共にでも貰ったのか」
サンジは頷いて、煙管の吸い口を撫でた。
「俺が十五の時、遣り手とナミさんが折半して買ってくれた」
口振りだけじゃない、見詰める顔も、名残惜しそうな声も、全てが大切なものなのだと告げていた。当然、取り上げるつもりなど微塵もなかったが、サンジはそっと言った。
「荷物はこれだけでいい。他に入り用なモンはアンタがくれるんだろ?」
信頼というよりもそれしか知らないような口振りだ。正に身一つで出て行くつもりのようである。あれほど大切にしていた恩義を捨てる様はいっそ潔い。
その所作の末端までもが男の斬り捨て方だ。サンジはどうやっても男で、身請けしても夫婦に成れるわけでもない。
それだというのに、手を取り肌を抱き、たおやかな瞳に魅入られる。俺は結局の所、初めて男の白に目覚めた時には既にサンジにやられていたのだ。あの夜の離れで見た裸足が俺を惑わせた。
けれどそれを間違いとは思わない。
見世を出るとき、サンジは振り返って頭を垂れた。それまで過ごした我が家と親代わりに対しての無言の礼だった。
白い鳥はこうして籠の外へ出て行った。
もう帰ることはない。
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書いた日 〜090730