喪失の可能性



  どこかへ行ってほしい。俺の目の前から消えてしまえ。そうして記憶すらも壊れて無くなってくれないか。
 サンジはふとそう夢想することがあった。
 だが実際は知っているのだ。そんなことがあったら泣きじゃくるだろうと。あのバカに置いていかれる自分など想像するだけで吐きそうだった。
 (そうだ、吐きそうなんだよ)
 それは精神的なものではなく、先ほどからサンジを苛んでいる悩みの種だ。肉体の不調。サンジはこれまでの人生に於いて、ついぞ大きな体調不良を感じたことがない健康優良児だ。いや優良すぎてむしろ異常の域である。そんな彼でも自覚できるほど具合が悪かった。
 何の変哲もない一人きりのキッチン。
 真夏の厨房でも目眩すら起こさない自分が、ほどよい秋の気候でぶっ倒れそうになるだなんて、笑える。
 「おい、ナミが呼んでんぞ」
 振り向いたらぐらついていた視界が徐々に暗くなり始めた。ゾロだ。この際人選するほど余裕なんかねェ、と息をこぼす。
 「悪ィ、行けそうにねェ」
 今度は赤くなってくる。サンジは一瞬、魚を捌いた時のまな板を思い出した。
 「…コック?」
 「チョッパー呼んできてく」
 れ、と声が出る前に画面の光度が急激に落ちていく――。








 ゾロが不機嫌だ。その上、元気もない。一応あれでも仲間が心配なのかと思って横目で眺めてみる。見た目はいつも通りのマリモである。
 船上の活気はなかった。海は凪で仕事もない。進まない船と同じく船員たちも動けずにいた。
 サンジが倒れたのは昼過ぎ、おやつ前。でも夕方近く。そんな時間になってもおやつの合図がないことを訝しんで暇そうなゾロを使いに出した。どこでも迷っ てばかりいる男だがいくらなんでもこんな小さな、自分の暮らす船で迷うことはないだろう。だから特に思うこともなく送り出した。
 そのゾロが、あの冷めてて余計なことは喋らないゾロが、血相変えて走ってきた――サンジを抱えて。ナミはその時点でチョッパーを呼んだ。それを見たのが他の船員でもそうしただろう。
 容態は高熱、感染症かもしれないと船医は見立てたが原因や対処法はわからないままだった。そしてサンジは医務室で眠っている。
 「でも、今朝は元気だったはずよね?」
 問いかけであって独り言ではない。
 「…ああ」
 この場にはゾロしかいない、強制的な会話である。
 「昼もよ?それとも我慢してたのかしら」
 ゾロは唸った。そのあと髪をぐしゃぐしゃ混ぜて呟く。
 「知るか。あいつに聞け」
 聞く暇もなかった、いきなりだ。しかもあいつ、らしくねェこと言いやがって…。
 ぼそぼそとこぼし、今度は溜息をついてゾロは立ち上がった。サンジの所に行くのだろう、ナミはそう見当をつける。刀を差して歩いていく背中。
 (あんたもらしくないわよ)
 サンジくんの心配なんかして、これ以上悪いことになったら困るじゃない。








 口論の途中、昼寝を邪魔された時、気に障る言動、馬鹿と言われた時。消えてくれねェかと思うこともある。屠ってやったほうがいいかと考えそうになることはしょっちゅうで、たまに本気で斬りかかる。
 だからといって奴に死んでもらいたいわけじゃない。
 それどころか死ねば空白を感じてしまいそうだとすら思う。知らない時には戻れない。最早あの存在はゾロの中身の一部分を作り上げているひとつになっている。無くせば壊れる、かもしれない。一人の時には知らなかった“仲間”の比重。
 いつだったか、あの野郎はふてぶてしくもこう言った。
 「テメェの血肉は俺様のメシでできてるんだから、ちっとは大事に扱え」
 その通りなのだ。いくらそれがコックの仕事とはいえ、事実には違いないとゾロは思っていた。だからと言ってサンジの言う「大事」の基準など十人十色だ。きっとゾロとサンジの度合いは違う。だから気を遣うつもりは全く無かったが。
 (人のこと、言えねェじゃねえか)
 誰かのために行動して自分一人倒れる――それがサンジの生き方だった。悪いことではない、だが本末転倒だ。ゾロはそれでいつか、サンジは死ぬだろうと思うことがあった。
 枕元にチョッパーはいなかった。ベッドには唸りながら眠るサンジ。顔を見下ろすと金髪が汗で頬に張り付いていた。はらうために触れた肌はひどく熱く、彼が病人だと知らせてくる。その度、ゾロには心配と憤慨のあいだの感情が積もっていく。
 何か言ってやろうと思った。でも何も言葉はでてこなかった。





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