夕食のあと酒を飲んでいたらいつのまにかキッチンには二人しかいなかった。ちょうどいい、そう思ってゾロはその背中に声をかける。
 「おい、テメェも飲めよ」
 煙草をくわえながら皿洗いをしているサンジはさっきから黙りっぱなしだ。
 ここのところ様子が変だというのは知っている。どこかぼーっとしていたり浮ついている節がある。戦闘には支障がなさそうだし仕事も普段通りだから誰も何も言わないが、サンジはどこか変だった。
 ゾロはその原因も何となく察していた。
 「仕事中」
 振り向かずに答えるから、顔をあげずに言う。
 「あと皿一枚だろ」
 言葉は予想済みだ。だから終わるころを狙って言ったのだから。
 「付き合え」
 渋々といった顔で隣の席についたサンジにグラスをくれてやる。並々と注いで、自分のぶんは瓶そのまま。海賊なんてそんなもんである。少なくともゾロはひとりで海に出てから酒の飲み方の作法など気にしたこともない。
 そう、この口うるさいコックに出逢うまでは。誰も取らねェよ。そう皮肉って笑われてから、ゾロは気まぐれにグラスを使う日ができた。サンジ曰く、酒を楽しむにはある程度の余裕が大切らしい。ゾロにはちっとも理解できなかったが、サンジが形式を必要とするタイプなのはわかった。
 だからこうして酒を勧めている。礼儀やらマナーを大事にする男なのだから勧められた酒を無碍に断ったりはしまい。
 以前は無かった見えない薄膜があるせいで喧嘩すらもまともにできないのでは逆にストレスが溜まるというものだ。解消する手立ては知らない。ゾロは今までそんな面倒な人間関係を持ったことがないのだ。だから絡まった糸の解き方も、透明な壁のすり抜け方も、壊すしか知らない。
 刀のような生き方しかできない。
 「何考えてやがる?俺が何かしたか?」
 ゾロの刃はまっすぐサンジを貫いた。
 サンジは弱々しく首を振った。金髪がばらばらと毛先だけ動いて、ゾロはあの髪の感触を思い出す。すかすかに見える色のくせしてちゃんとコシがあって、けれど毛先は痛んでいた。
 思い出したから、それをつい、と摘んだら、サンジはぱっと顔をあげた。
 その反応にはゾロのほうがびっくりした。明らかに肩を跳ね上がらせていたのだ。
 それでふと思った。
 「俺を避けてたのか?」
 思えばどこかしっくりこない喧嘩もサンジが勝手にかかってきて勝手に切り上げるからだし、前は少しくらい会話があったがそれもない。
 今まで俯いていたサンジはきつくゾロを睨みつけた。それは怒っているとは少し違う色で、ゾロは少し身構える。
 まったくこの男は解りにくい。感情の起伏が激しいくせに妙なところでポーカーフェイスをつくってみたり反発してみたり。もっと素直ならばゾロだってこんなに苦労はしない。
 どうやら苛立ちのようなものをにじませたサンジはぐいっとグラスを呷った。かつん、と机に戻された空っぽのなかにゾロは再び酒を注ぐ。
 瓶の中身はもう一口しかない。
 その一口を飲み干すことはなかった。無くなればサンジかゾロが酒を取りに席を立たねばならない。会話が途切れてしまう。そうすればサンジのことだ、口八丁で逃げかねない。
 「はっきり言え。テメェのことなんか言われてもわかんねェんだ、言われなきゃもっとわからねェ」
 「何にも、ねェよ……」
 「いつもはやかましいくせに、こんな時だけダンマリか」
 サンジは困っているのだ。へなりと下がった眉を見ずともわかる。しかし素直とは違うようだ、食ってかかってくることもしないのだから。
 「この前は平気だったろ、なんで触ったら逃げる?」
 もう一度、手を伸ばす。
 もう一度、あの左目が見たくなったのだ。
 「ちょ…やめ」
 ろ。言うより先に指の腹が輪郭に触れた。もちろんサンジは避けようと後ろに顔を反らしたのだが予測済みの手はもっと早く伸びた。
 さりさりと髪が刺さる。
 「逃げる理由は何だ」
 答えなければ逃がさない。そんな決意をしてここにいるのだ。
 ゾロは彼を捕えようと眼力でもって串刺しにする。貫かれたサンジは忙しなくまばたきをしていた。触れられた頬の手も振りほどかずに。





 吐く息が震えている、指先も震えている、頭が真っ白で考えは纏まらない、くるくると空回る思考とはうらはらに心臓ばっかりがんがんと鳴っている、この現実がどこか遠い。
 理由なんか言えるわけない、言うわけない、黙っているのが良策だ、口を滑らせてはならない、そもそもどうして気付いた、いや気付いていないのか、聡い頭じゃないんだからきっと野生の勘だろう、厄介な、けれどゾロらしいな、とまあ、サンジの脳内はおもちゃ箱をひっくり返したようにめちゃくちゃになっていた。
 それでも頭のどこかは冷静に言う。
 嬉しいだなんて戯言を。
 どうしてそんな感情が湧くのかサンジにはさっぱりわからない。喧嘩相手なんだから嫌われててもおかしくないのにゾロは自分を気にかけていた。それが、サンジの胸の真ん中あたりをむずがゆくさせる。嬉しいような恥ずかしいような、とにかくそういう、女の子相手に感じるような気持ち。自分のどこにゾロに対してそんな気持ちがあったのか。せいぜい仲間としての愛情くらいしか持ってなかったはずだ。
 それなのにはっきりと思う。
 ゾロがいなければダメだ。俺より先に死ぬな。でも死ぬまで走ればいい。ただ置いていかないでくれ。俺にその背中以外を見せてくれ。隣を走らせてくれ。俺とゾロが一緒に歩いていける道理はないんだけれど、それでも、勝手にいなくなるな。
 だったら俺も一緒に連れていけよ。
 優しげに触れるその指先ひとつでサンジの心の箍はたやすく外れてしまう。決壊した気持ちはとどまるわけもなく、こぼれた。
 「変になりたくねェんだ!おかしくなっちまいそうで…」
 縋るような必死さを持って、サンジはゾロを見上げた。まるで溺れる子供のようだ。どうしていいのかわからず助けを求めるばかりで、相手が藁だってこの際どうでもいいのだから。
 「だから…わかるように言えよ」
 サンジにだってわからない。
 ただ、この動悸は何か知っている。
 「お前がいると変になる、望んでもいねェのに…お前ばかり見てる。俺の体が勝手にお前を探すんだ」
 じくじくと痛む胸。沸き立つ頭。姿を追うどうしようもない眼。まるでゾロ専用のレーダーでも付いているみたいに、検知しては熱くなる、俺の体のすみずみ。
 自分の体のくせに言うことを聞かない。心すらも勝手に走り出している。
 だから勝手に口が言うのだ。
 「すき…すきなんだ」
 ゾロ。そう呟いた声はささやきにもならなかった。





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