虎
ゾロは腹が減っていた。いつもは適当に兎だとか狐だとか、草っぽいものとかを食べて過ごしているが、ここのところそれがない。このあたりは河原のせいかあまり草もないし獣もいないのだ。
そう思っていたら河原に人がいた。煙が立っていて、魚を焼いているみたいだ。
「お、ラッキー」
魚をくれるように頼んでみよう。すんなり貰えればいいが、くれなきゃそろそろ苦しくなってくる。なるべく人間は食いたくないからな…。
ゾロは元々が人間だったのだ。虎が虎を食うのに抵抗はないかもしれないが、人間は人間を食べない。だから食べる気がしない。
気配を殺してじっと見ていた。観察しないといけない。
ただの若い男だ。こんな人気のない所にいるが旅行者だろうか。それにしては身軽すぎるし、単純に周辺に住んでいるのかもしれない。
すると男がこちらを向いた。眼が合ってハッとする。顔もただの男だ、でもここは相手の居る場所よりも高い位置にあるから自然に目が行く場所ではない。つまり気付いていたのだ。
ただの男がこの距離で気配がわかるってのか?危ない、こいつ。
警鐘が鳴った。一歩下がってこの場を離れようとする。すると男が叫んだ。
「おい!腹減ってんだろ?これやるからでてこいよ!」
警戒心が働くのはわかったが空腹には勝てない。ゾロは岩場を降りて近づいた。
「うまかった、ありがとう」
久しぶりに調理したものを食った。焼いただけでもありがたく感じるくらいだ。男は「そこまで腹減ってたのか」と笑った。
ただの男と思ったが、違う。こいつは何か、ちょっと違うのだ。見た目も小奇麗だし物腰が柔らかい。そのわりには気配も読む。一筋縄ではいかないようなかんじだ。何より造形がきれいで、ゾロは密かにかっこいいと思った。
今が虎でなくてよかった。喰わないできれいだと思える。
思わずまた観察していると男がすっくと立ち上がった。
「もう行くのか?」
「その前に行水しとく」
言うなり服をばさりと落とし履物を脱ぐと河へ近づいていく。ゾロは見上げた視線のままそれを見ていた。
ただの男?こんなにきれいなのにそんなわけがない。
滑らかな肌をしていた。だが女らしいというわけではない。骨格も肉付きも完全な男だ。でも若々しい肉は水を弾いて輝いている。
猛烈に、喉が渇く。
満たされたはずの腹が実感を失くす。
ゾロは自分でも信じられないくらい飢えているのを感じた。欲しくてたまらない。食べたい。理性ががらがら壊れていく音が聞こえるような気がした。
無防備な背中に近づく。後ろから両手を押さえつけるようにして抱きつく。捕まえればこっちのもんだ。
「っうわ!何すんだよ」
「我慢できねェ…」
「何が…うっ」
ゾロは味見をするような気持ちで首筋を噛んだ。血はでないように。それでも刺さる犬歯が痛いのか男は身を竦めた。
「テメェ、やっぱり人じゃなかったか」
「知ってたのか?」
「確証は無かったけどな」
べろりと項を舐め上げてみる。
「お前うまそう」
「バカ、やめろっ、痛ェんだよ!」
ざりざりしている舌は人間の肌には痛い。知っているけれど肉の誘惑の前でそんな過去のモラルなど到底勝てるわけもないのだ。喰いたい。今はその本能だけしかない。
「きっと、喰われるのはもっと痛いぜ?」
そろそろ会話する理性もなくなってきた。同情の代わりに残酷な気分がわいてくる。生きたまま腹の肉を喰いちぎってやりたくなる。
ゾロは裸の腹をそっと撫でてみた。無駄がない筋肉の量だ。すべすべしていて熱い。ますます美味そうに思えてしまう。
そのうち考えがまとまらなくなってきてゾロは男を河原の方へ突き飛ばした。そして体の上に圧し掛かる。ゾロの体はもう、虎になっていた。
「おいおい、俺を喰う気かよ…」
前足で肩と腹を押さえつけると忙しない鼓動が伝わってくる。ゾロはますます興奮して男の鎖骨に浮かんだ汗を舐めた。それでも男はたじろぐだけで決定的な抵抗を見せなかった。ゾロは疑問に思う。まだ喰っていないのだ。喰われる直前に無抵抗な動物なんて居ない。牙が刺さるまでは誰だって必死に暴れる。本能を押さえつけて理性を持ち、牙や爪を持たないぶん頭脳を持っている人間って奴は動物の生き方も何かに換えてしまったんだろうか。
じっとその瞳を見ていると男は冷静な口調で喋りだした。ゾロの眼を見つめたまま。
「巷でウワサになっている虎ってのはテメェのことだろ?もし人間が虎になったとしても随分な時間でも経たなければ人間には戻れない。どうやってんだか知らねェが都合よく形を戻せるのはテメェだからだ。相当な力と素質がなければできねェ」
「…だから、何だってんだ」
「無闇に人間なんか喰うと、力が汚れるぜ。それこそ虎のまんまだ」
するりと男の右手がゾロにのびた。筋張った手が虎の毛並みを慈しむように撫でるとゾロは動けなくなった。しっぽや顔は動くけれど前足が男にくっついたように固まっている。
「てめえ何した!」
「お前もったいないよ。そんなにきれいなのに」
それはさっきゾロが飲み込んだセリフだった。きれいなのに食べてしまうのがもったいない、と。でも男は同じ言葉でも違う意味を吐く。きれいなのに理性をなくして虎になってしまうのはもったいない、と。
「お前が俺を喰いたいのと同じで、俺もお前が欲しくなった。だから俺のもんになれ。」
男はそう言うとゾロの左耳を軽く掴んだ。ゆっくり指でなぞられるとちくちくとした痛みが走る。漏れた呻き声は獣そのもので虎である自分を強く自覚してしまう。
俺は虎だ。いや、人間を喰うことを躊躇うなんて虎ですらない。中途半端で獣でも人でもない。そんな醜悪な生き物にもったいないだとかきれいだとか、そんな言葉は相応しくない。それに俺は誰かに従うのは御免だ。飼われた虎なんてもっと嫌だ。中途半端だと見世物にされる屈辱なら死んだほうがマシだ。
「俺は俺のもんだ」
吐き出した声は震えていた。
「そのうちお前はお前のものじゃなく虎のものになっちまうぜ?」
だったら俺のものになっとけよ。男はゾロの左耳に囁いて口付けた。その瞬間、眩しい光が溢れて男の横顔を照らした。自分じゃ耳は見えないがどうやら光っているのはそこらしい。
焦って動かない前足を引っ張っているうちに耳が熱くなってくる。
「ッ何だ、何した!」
「なァお前、名前は?」
耳の熱さが体に移ってしまい、問われた言葉がよくわからなかった。すると男がゆっくり「なまえ」と口を動かしたのがわかった。
なぜ今?何の関係がある?こいつは一体何をした?やっぱり只者じゃねェ。俺の勘は外れてなかった。
ゾロの思考は既にぐちゃぐちゃでただ繰り返される問いにだけ答えた。
「ロロノア……ゾロ…」
「俺はサンジだ。よく覚えとけよ、ゾロ」
耳の熱に耐え切れず、ゾロの意識はそこで途絶えた。
起きたら視界が上下に揺れていた。地面と足が見えてがばりと顔を上げると「うおっ」とすぐ近くで声がする。
「急に動くなっ、転ぶだろ!」
背負われている状況を見てこの声の持ち主を思い出した。
「てめえ!俺に何しやがった!」
暴れるとぽいと降ろされたのでその肩を掴んだ。ゾロを背負うほど力がありそうには見えないが、この男は油断ならない。睨みつけるとやれやれと言わんばかりの目線とぶつかる。
「何って…封印。」
「封印!?」
つい素っ頓狂に聞き返してしまった。すると何でもないことのように笑顔で言われた言葉にゾロは絶句した。
「お前はもう俺のもん、ってこと」
説明に因れば。
本能に負けて人間を食べ続ければ虎でしか居られなくなる。だから「理性や自我を強く」した。バランスを取る為に「力を制御」することで人間の形を保ち易くする。
そして「ゾロはサンジに従う」とした。だから逃げることも逆らうこともできない。
金の耳飾がその媒介だという。
「ふ、っざけんなあああ!!」
爆発したゾロはサンジを殴ったが避けられ、余計腹が立つ。
「大体テメェなんでンなことできんだよ!戻せ阿呆!」
「俺これでも一応道士だし。結構強力な術かけたから、テメェが力任せにやっても百年くらいは外れないだろうな〜。あ、戻す気もねェから」
「じゃあテメーを喰う」
「だから喰うのはやめろっての」
「じゃあ外せ!」
「嫌だね」
永遠に続きそうな押し問答はサンジの溜息で収束することになった。
「外したらテメェまた人間喰っちまうだろ?虎になるなんざもったいねェ…」
「別に…どうでもいいだろ」
いっそ虎になってしまったほうが苦しみは少ないだろう。人間を我慢しなくてもいい。苦労を避けたいというよりも、そのほうが自然な成り行きのような気がした。
けれどサンジは怒ったような顔で睨みつけてきた。まるでそれが最悪の間違いであるかのように。
「俺が嫌なんだよ!言うこと聞けなんて言わねェから俺についてこい、どうせやることねェんだろ?」
確かに、ゾロにやることはなかった。虎になってから目標もなくただ生きて、食べて殺してきた。それを疑問に思うこともなかった。
なるほど。虎であるというのは、こうして考えることも失くすのか。ゾロは耳飾に触れてみる。金属の擦れる音が響いた。これがくっついてから思考が明朗になった。こいつの言うことはあながち嘘でもないらしい。悪意も無いようだ。
判断に唸っているゾロに近づいたサンジはその肩に手を置く。
「俺ァお前のことが気に入ったんだ、ここで別れちまうのはもったいねェだろ?」
初めて見る笑顔だった。きれいでもったいない、その気持ちがまた湧くのを感じてゾロは焦った。そしてこの笑顔をまた見たいだとか、一緒に行ってみようかとか、そんな風に思った自分を恥じた。俺は虎だ。こいつは人間だ。相容れないで喰ってしまうかもしれない。そうして、きっと喰えば後悔する。
「だめだ…」
そんなゾロの葛藤なんぞ全てお見通したと言わんばかりにサンジは言う。
「深く考えんなよゾロ。俺はこう見えても一流なんだぜ?封印かけてる相手に喰われたりしねェよ」
「……喰いたくなったら、どうすりゃいいんだよ」
「平気だ、食いたくならねーよ」
ゾロが俯いていた顔をあげるとサンジは悪戯が思い通りにいった子供のように笑った。
「人間よりももっと美味いもん食わせてやるからさ」
香ばしく焼かれた魚の味を思い出して、ゾロもつい笑ってしまった。
こいつと一緒に居れば確かに人間なんて不味いもん食いたくならねェのかもしれねェな。
書いた日071020 2010年は寅年! 人虎伝がすき。トラがすき。トラなゾロがすき。