上野



 「違ェ…」

 呟きは喧噪の中に消えた。と思ったら拾われていた。
 「なにが?」
 隣からのぞきこんできたかわいい女の子はサークルの同学年で、顔を合わせれば話はするが連れ立って遊びに行ったことはない、つまりそんな関わりの子だ。一年の頭、校門前。先輩の軽い勧誘のままにゾロと一緒にサークルに入った。偶然だが校内で一番小さな「コミュニケーションサークル」で、要するに時期に合わせて遊びに行ったり飲み会をしたりするのが主な活動、といういかにも大学生な集まり。
 たしかユカだ。漢字は知らないがサワーばかり飲んでる、前はもう少し髪色が暗かった気がする。目の前の女の子は俺が記憶を掘り起こしていることを知らず一言付け加えた。
 「何が違うの?」
 無邪気な声の問いにぼやけた思考を呼び戻す。
 「あ、いや…俺が飲もうと思ってたのカシオレじゃなかったんだ」
 赤色パッケージの缶を振ってみせる。
 「飲みたいのもう無かった?」
 「置いといたら無くなってた」
 はは、と笑ってみせれば彼女はそれ以上追求しなかった。




 飲み物は何だってよかった。カシスオレンジだろうとスクリュードライバーだろうと。どうせ缶チューハイの中身なんてカクテルではなくジュースだ。味より炭酸。腹が膨らむだけでアルコールなんてほとんど入っちゃいない。
 別に酒豪でなくたってそう思う。ゾロと一緒に飲むようになってからは酒に慣れてしまった。
 「酔ったのか?」
 いつの間にか隣にゾロが来ていた。ふと見上げるとゾロは立派なサクラの大木を背負っている。
 寝るのが趣味であるこの男は午前中から席取りに寝ていろと命じられ、それからずっとここにいる。真っ昼間から飲み始め、現在午後六時前。夕方になろうと空は色を変え始めている。
 すっと隣が埋まる。
 「べつに…ほろ酔い程度だよ」
 顔を向けずに答えるとゾロが缶を持っている方の腕を掴む。
 「? 機嫌悪ィな、なんでだ」
 今日に限ってやけに察しがいいもんだ。クソ鈍感のくせに。
 缶の中身をあおる。どうせ半分も残っちゃいないのだ。酔っぱらって倒れたらお前が持って帰れ!と半ばヤケクソに飲み干した。終わった缶をブルーシートに叩き付けるついでに、胡座をかいているゾロのひざをバンっと叩いた。
 「ってえ!」
 「痛くねェだろーが」
 「痛ェ。んだよ、何怒ってんだよ」




 俺が行こうって言ったのは確かに花見だ。サクラを見ようと約束した。
 でも。
 みんなで、じゃない。お前と二人だけで。
 上野公園でビニールシートを敷いた一団に紛れたかったわけじゃない。賑わうサクラが見たかったんじゃない。
 面影橋の裏。神田川のサクラを見たかったんだ。




 「バカ。バカマリモ。お前ホントだめだな」
 俺が溜息をついて項垂れると、ついにゾロは切れた。
 「っあぁ!? ……な、なに」
 変な感覚が頭皮を流れた。まさかと思ったときには遅く、流れるものは項と鼻先へたらたらと走っていく。そのまま顎からぽたりと垂れた。
 「きゃあ!なにしてんの!?」
 「うわーーゾロがやったーー!」
 「サンジくん、大丈夫!?」
 周りの人たちのざわめきは当然だろう。サークルの奴らだけじゃなく関係ない他人もドン引きだ。OLさんらしき女性がすごい目でこっちを見てる。向こうのほうではハゲたおっさんが手を叩いて爆笑中。
 この野郎、酒かけやがった。
 「うあ…日本酒じゃねェかよ!酒くさくなんだろうが!」
 「うるせェな!てめぇがうじうじしてんのがいけねえんだ!」
 「ああ!?元はと言えばテメーがバカだからだ!」
 「バカっていうな!」
 「約束破ったんだからバカだ!このクソバカ野郎!」
 そこまで言うと俺の胸倉を掴んで立たせたくせに、ゾロはぴたりと動きを止めた。
 「約束?」
 破ってはいない。でも言葉のアヤだ。
 「何のだ?」
 きょとんと見つめるゾロの目が痛い。バツが悪くて目を逸らすと、胸倉から腕に場所を変えて引き摺っていかれた。
 「おい、おまえら!」
 「ケンカなら捕まらないところでやれよー」
 女の子のきゃーきゃー言う声が聞こえたがゾロには聞こえていないようだった。






 「…べたべただ」
 喧噪は遠い。すっかり暗くなった上野公園のどこか。位置はよくわからない。方向音痴のくせにどうせアテもなく歩いたんだろう。
 酒の乾いた頬を拭うと手の甲がくっついた。
 「わりぃ」
 短く謝るゾロの声もバツが悪そうだ。
 酒をかけたことなのか、例の約束の件なのかは量りかねたがただ本心で謝っているのはわかる。
 やがて立ち止まったゾロはきょろきょろすると茂みに入った。
 「なに……、!」
 そのべたべたになった頬を舐められて思わず後ずさった。
 「ここ外だぞっ」
 俺の文句も構わずゾロは一通り舐めて、そのままキスをした。それも酒を舐めるだけというかんじの処理めいたものだ。
 「わりぃ」
 「…今度は何にだ。キスか?」
 「いや、約束」
 また軽い音といっしょに柔らかいものがぶつかる。俺は何も言えずに黙りこくってしまう。
 「ただサクラが見たいのかと思ってた」
 今日に限ってやけに察しがいいもんだ。まったく憎たらしい。人のことを振り回すだけ振り回して、キスひとつで機嫌を取ろうとするとは。
 「クソ…」
 そうだ。俺はサクラが見たかった。ゾロと二人で。
 あのとき面影橋から眺めた枯れ並木で、二人っきりで並んで過ごせるならいいのに。そう思った。
 淡い願いが今はこんなに近い。ゾロは俺の両腕を取って酒の辿った髪の毛に口付けてくれる。




 短い冬休み。田舎に帰るゾロに「行ってみたい」と口にした。俺は実家から大学に通っているくらいだから当然長期休みに帰る田舎などない。だから羨ましかったのも事実だがゾロの実家に行ってみたかったのだ。
 でも戯れに口にしただけ。なのにまさか「来いよ」と行ってくれるとは思わなかった。俺は嬉しすぎて遠慮も知らずに身支度をしてついていった。
 ゾロの実家は父親ひとりきりで、母親は早くに亡くなったらしい。客間が無いというのでゾロの部屋に一緒に寝た。泊めてもらう礼に食事は俺が作らせてもらった。優し気な父親は喜んでくれた。


 大晦日の夜だ。酒を飲み交わしていたが近くの神社に行かねばならないという父親を見送るとゾロと二人きりになった。テレビでは年越し番組がただ流されていてゆるやかな時間だった。俺たちはリビングのソファに隣合って座っていた。
 「お前は神社行かなくていいの?」
 「来いって言われるがいつも面倒くせーからいかねえ」
 「同級生とか来んじゃねェのか。会えばいいじゃん」
 「いいよ…それより」
 手に何か触れた。ゾロの手だ。急に血の気が上がって隣の顔を見るとおんなじように薄赤かった。
 「テメェといるほうがいい」




 髪の毛に触れる優しいキスにぐっときて、ついゾロに抱きつくと自分の酒臭さにべとべとなのを思い出した。慌てて飛び退く。
 「やべ!酒まみれじゃん、帰って風呂はいんねーと」
 「そだな。あいつらの所寄るか?」
 「メール…」
 携帯のメモリを呼び出してぱきぱきボタンを押す。酒浴びしたから先帰る。ただそれだけ打った。ゾロも一緒だってのは推し量っていただこう。
 「俺んちでいいか」
 「おう」
 周りには誰もいなかった。夜に沈む木々ばかりで俺たちを咎めそうなものはいない。
 少し緊張しながら手を繋ぐと、ゾロは握り返してくれた。
 こんな春の夜だ。きっと花見に浮かれた酔っぱらいだと勘違いしてくれると祈りながら、ゾロのアパートまでこの手を離さないでおこう。そう思った。





書いた日091120 面影橋・続編、つきあってる、大学二年の春