面影橋
空は重たく暗い。夕方の曇天はまるで天に蓋をしているようだ。
俺は携帯電話の背面ディスプレイを睨みながら、意識だけを線路の向こうに置く。
冬の空気に晒されたレールはさぞかし冷たいのだろう。そこを走ってくるであろう列車を今か今かと待つ。
「さみ…」
手の中で黄緑のドットがAM06:38の表示を象っている。時刻表に寄れば次は42分。
本当に俺が待つのはそれなのだろうか?
待ち人来ず、は無いだろうが…もう俺の前を何本かの列車が通り過ぎている。そのたび停車はするが乗るつもりのない俺だけをホームに置き去りにしてそれはまた出て行くのだ。
はやく。はやく。
立ったまま、両手とその向こうの爪先を見つめた。コンクリートも雲と同じ色をしている。こんな天気ではどこを見てもそんな色合いに見えるが、きっとあいつの色彩だけは鮮やかに見えるはず。
かすかに聞こえ始めた鉄が走る音。
顔をあげると向こうのほうから列車が近づいてきていた。ゆっくりと大きくなる中身が覗けないかと目を凝らす。
やがてそれは目の前で止まった。
若い女性が降りた。
「遅ェよ」
その後に続いてゾロが降りてきて、ドアは再び閉まる。そしてまた俺を、ゾロもを取り残して列車はゆっくりと動き出した。またレールの上を走って遠ざかっていくのだ。
「仕方ねェだろ、俺は授業があったんだよ」
水曜四限はたしか文化人類学だ。俺はゾロの時間割を思い出しながらホームの出口に向かって歩いた。
「何でアレ取ってんだ?つまんねーしレポート面倒って聞いたぞ」
「別につまんなくねェ」
後に続きながらゾロはつまらなそうに言った。俺とは違ってゾロは勉強が嫌いじゃないタイプで、ノートをばりばり取るのもレポートを二十枚書かされても授業に興味があれば問題ないらしい。俺は頭がよろしくないので興味があっても難易度が高い授業はパスだ。単位が取れない。
だからその文化人類学は遠慮したのだ。
「俺はつまんねー」
空は相変わらず曇天である。
「てめぇ取ってねェだろうが」
こんな空の下で一時間半もホームに居た俺の事情を知らない男はまたつまらなそうな声で言った。
「おめーがいねェからつまんねえんだよ、バカ」
一人で空回ってるような気がしてムカついたので後ろ蹴りをしたが、ゾロはあっけなく避ける。その拍子に巻いていたマフラーがほどけて首が一気に寒くなった。
ゾロは蹴りのおかげで止まった俺に合わせて立ち止まると、そのマフラーを俺にぐるぐる巻きつける。
「バカって言うな。だったら隣で寝てりゃよかったんだ」
文化人類学の教授は聞いていない奴は授業を邪魔しないかぎり放置するので確かに寝ていることは可能だ。だけどゾロは相手をしてくれないだろう。結局つまらないだけじゃないか。
マフラーのせいで口元に息がたまる。隠れているのを理由に俺は喋るのをやめた。
しばらく無言のまま歩き続ける。ホームはとっくに終わって俺たちは誰も歩いていない冬の曇天の下をただ歩いた。
別に怒っているわけじゃなかった。特に何も考えていなかった。
「怒んな。今日のメシおごってやるから」
なのに勝手に気を回したゾロは俺の頭をぐしゃぐしゃにしながら気前のいいことを言っていた。
そのとき、ちょうど桜が並ぶ川縁を歩いていたので、俺はすっかり葉を落とした木々を見ながら呟いた。
「じゃー…このへんが満開になったら花見しようぜ」
こういうときの約束というのは大概が口ばかりで、言ってみただけになるのが多い。けれど相手はゾロだ。
「おう。花見っつったら酒だな」
誘いをノリで済ませる柔軟さは持ち合わせていない男である。たとえ後から「わりぃ忘れてた」と言おうと「本気にしたのかよ」と言おうと「行かねえならいい」と流すだろうが、とにかくゾロにとって約束は堅いものだ。
寂しい枯れ木を眺めて、俺は他愛もない口約束に寂しくなっていた心を弾ませた。曇天の下、空想で見えるソメイヨシノがきれいだった。
書いた日090912 大学生、ただのともだち、手が冷たい、冬、曇り