板橋
ホームから見下ろす線路がやけに鈍く光っているように見えて、ああ、普段は線路など見ないのだと思い出した。地下鉄ばかり乗っていたせいかちゃんとした色を見ることが少ないのだ。真昼の太陽の下で見る鉄の轍はひどく重そうで、砂利や生えている草がこのホームが少しだけ寂れていると思わせた。看板たちの中には真っ白なものも居る。
一番端に降りてしまったせいで改札への階段ははるか向こうだ。風がないから温度が感じづらいまま、ゆっくりとコンクリートの上を歩く。狭い通路を通って改札口を抜けると、車が起こす風でやっと温度を体感した。頬に当たるのは確かに冷気だ。息の塊は白く空気に溶けていく。
さっとロータリーを見渡しても目当ての人物は見当たらない。
そのことを些か残念に思う気持ちと、心構えを持つ時間ができたことに対する安堵が同居して、知らず緊張していた息を抜く。出した携帯電話の表示は何もない。時間は三時を少し回った頃だ。
待ち合わせの時刻は過ぎている。
ふと目に入ったのは小さな花屋で、店先には鉢植えと挿した切花が置いてあった。自分と同じ年の頃の女性が水の流れているままのホースを持って、忙しなく働いている。客の応対をしながら注文を捌いているらしい。真剣そうな表情の合間にも笑みが零れているのが遠目にもわかる。それだけで微笑ましいような気がした。
その光景がひどく懐かしいものに思えたのだ。よく似ている。今より前、眺めていた姿に。
いつも見ていた。忙しなく動き回るその背中、優雅にすら見える手の動き、痛いくらい真摯な眼差し、そして手中で出来上がる料理たち。味ははっきりと思い出せるわけではないが初めて食べた時の感動なら覚えている。それまで、幸せだと感じるような食事をしたことなんてなかった。
料理は味だけじゃなく、状況も大事なんだ。いつか言われた言葉だが、今はそれが本当なんだと感じる。子供の頃に食べたものは味がどうだったかよりもその場面で美味しかったと覚えてるものだと。そう言っていた。
今は聞いた知識としてではなく、自分の体験としてそう思う。
あの他愛もない時間がこんなにも大切に思えるなんて。あの時は想像もしなかった。ただ背中を眺めて、作ってもらった食事を食べるだけの時間が、かけがえがないほど愛しい。
夢に見るほど。
あの頃はもう一度来るのだろうか。この街は然程変わっていない。俺も変わっていないと思うけれど。時間も、自分達の周囲も、状況も違う。
そしてお前の気持ちはどうなっているのだろうか。
不安に思っているのは確かだ。しかし禁じられているように感じるのはその気持ちを疑うような後ろめたさがあるからだろう。
信じている。変わらない。
少なくとも俺はあの頃からちっとも変わらず、お前にしか幸せを感じられずに居る。
花屋の店先から客が途絶え、店員が常に開放しているのであろうガラス戸を拭き始めた。冬の冷たい空気にもめげずに働いている姿は余計に思い出と重なる。きっとあの指先は凍るように冷たく、荒れているのだ。
「なァに見てんだよ」
骨の芯まで氷で出来ているのかと思うほど、俺の手を握り締めた指先は冷たかった。不意をつかれて振り向くと先程まで思い浮かべていたその姿が。
「久しぶり。浮気してなかったか?」
思い出の中とは少し変わっているけれど、同じ眼差しがそこにあった。間違いなく自分を見て、微笑むその顔はサンジのものだ。それだけでわかる。不安など杞憂に過ぎなかったと。
「…テメェこそ、浮気してたんじゃねェの」
「質問に質問で返すなよ」
呆れたように笑うその顔が堪らなく愛しくて咄嗟に抱きしめた。ここが駅前だとか花屋の女店員だとか、晴れた空が夜に向かいつつあるとか、どうでもよかった。ただその体温を確かめて、逃がさないように。回された腕が背中をあやすように叩き、それにまた安心した。
書いた日070204