[春(わらう)]



 「ふぁーあ…」
 眠い。麗らかな陽気はゾロをずるずると眠りの野原にひきずっていこうとする。伸びをしてみても霞のように付きまとって目には涙が湧いた。
 ゾロの職業は剣道師範だがその実態はとても緩い。道場はほとんど身内でやっているせいか突然の休暇を願い出るのも何時間か抜けるのも大したペナルティはないが、そのぶん薄給でそれ一本では到底食べていけない。ゾロがやっていけるのは家賃を浮かせている幸運と物欲がないタイプだからである。
 それでも食費くらいは必要なので高校時代からバイトをしているが、続いたためしはない。剣道以外に熱心になれたものがないのでゾロは師範になった。そんな好きなように生きている人生を気に入っている。
 歩いていると人家のコンクリート塀から薄ピンク色の塊が顔を出していた。庭に植えられた一本のサクラは見事に満開だ。ゾロはしばらく立ち止まってそれを見ていた。
 サンジにも見せてやりてえな。
 すぐ届きそうなそれを手折るのは躊躇われて、じっと目に焼き付けるに留める。
 また散歩にでも来ればいいか。そう軽く考えてゾロはバイトまでの道のりをまた歩き出した。

 一昨日の夜、ゾロはサンジの家に行った。夜明け頃に二人で眠ると珍しくサンジよりも早く起きた。それでも太陽はしっかり西に傾き始めていたがゾロには寝坊のうちに入らない。きっと自分より短時間だろうサンジの睡眠を考えて、黙って部屋を出た。
 今まで誰かを思いやった事があっただろうか。ゾロは思い出そうとしたが振り返った過去にそれらしい事象は見あたらなかった。ナミにおごってやるのは本意ではないし、コウシロウに対する気持ちは身内へのものだ。やっぱりこれまで付き合ってきた男に起こさないように、なんて殊勝な行動をしたことはない。
 サンジなら、何だってできるのか俺は。
 誰もいない路地でよかった。ひとりきりで笑うゾロの姿はかなり奇妙な気がした。





気遣い・愛情