領匂侵犯
晩、海には雪が降り始めた。十分もしないうちに本格的になってきて手摺に薄らと白が敷かれる。
ちょうど見張り番をしていた俺は寒さよりも頭に雪が積もるのが鬱陶しいと思い、降りて毛布を取りに男部屋へ向かった。すると風呂から出てきたコックと出くわした。
「てめえ、見張りだろうが」
珍しく煙草をくわえていない口から不躾な声が漏れたが、持ち上げた毛布を見ると不可解だという顔が途端に笑みを含むものに変わる。
「へえ…やっと人間らしい皮膚感覚に進化したんだな」
こういうときの抑制法を俺は知らない。知る気もない。ムカついて瞬時に毛布を顔に叩き付けた。
「ぶっ」
「てめーは人間らしい眉毛にしろ」
毛布はずり落ちた。甲板に落ちる前にそれを掴んだコックは今にも襲いかかってきそうだった。俺は一歩下がってそれを眺める。この間合いなら初動なしの蹴りは届かない。
「オロすぞテメェ…」
けれどコックがその脚を繰り出すことはなかった。毛布を片手で握りしめていたと思ったら、急にそれを顔に押し付けた。
もちろん離れている俺にではない。
何をしているのかわからずただ見ていると伏せていた目がこちらを見る。
「これ、お前のか?」
「…? おう」
今朝寝ていたハンモックから持ってきたのだから恐らくそうだろう。
「へへ」
意味深に笑うコックに何か不気味なものを感じて俺はもう一歩下がった。すると離れたのを無視するようにお互いの間を詰めてくるので俺はまた下がる。向こうは近寄ってくる。そのうち甲板の手摺にぶつかった。
「…なんだよ」
にやりと笑うその顔が不気味すぎる。そして逃げ場は無い。後ろは海だ。真っ暗なグランドラインに飛び込むのはコックと対峙している以上に危険だと思う。
だから精一杯睨みつけるが奴のにやつきは変わらない。
手を伸ばしてもぎりぎり届かないところ、コックが立ち止まる。
「お前、俺のこと好きだよなあ」
「はあ?」
何をほざきだしたのか。やっぱり頭が湧いたことによる笑みだったのかと思いかけたら、徐にコックは毛布を抱きしめた。俺は思わず顔が引き攣った。
気持ち悪っ。
「誰が、変態コックのこと、好き…だア?」
「ゾロ」
うえ。あんまりな即答に背筋がぞわっとした。
「んなわけねえだろ」
「この毛布、俺の煙草のにおいがついてんだけど」
「はあ?」
瞬時にそれを奪い取り鼻先をくっつけると、確かに臭う。コックが年中吸っている煙の焦げたようなにおいが微かにしている。
「な? ヤるときに使うからじゃねえか?」
「……」
確かに、格納庫やら甲板で一緒にいるときに使うのはどちらかの毛布だ。そしてコックは裸で寝煙草をふかしてから眠るのが習慣である。
その悪癖のせいで俺の何か――体でも心でもない空間のような曖昧なもの――を侵害されているというのが気に食わない。
「…別に、好きだっつうことにはならねえだろ」
負けてもいないのに、負け惜しみのような気持ちで言った。するとコックはあのぐるぐる眉毛を寄せて反論した。
「テメーは好きでもない男とセックスすんのかよ」
もう一度毛布を叩き付けたくなったが辛うじて我慢する。
「だからっててめえを好きなわけねえ!」
誰がこんなクソコックに好きだと言うか。返事のかわりに脚を出しすぐに人のことを馬鹿にして女に媚びばかり売る、とにかくいけすかない男を、誰が、好きだというのだ。
俺は毛布を握りしめたままコックを無視して見張り台につながる梯子へ向かった。
こんな奴と話をするのは終わりだ。
「馬鹿なのか、素直じゃねェのか…」
後ろの盛大な独り言は聞こえないふりをした。
「あんまり意地はってっとイイことねーぞ」
聞こえない。
「俺は好きだけどな、ゾロ」
聞こえない。
そんなことは知ってる。面と向かって言われた事はないが、自分でも言っているようにコックが好きでもない男とセックスをするわけがない。わかりきってる。
だが言ったら言ってもらえると思うなよ。
俺は好きだなんて言ってやらない。あんな気に食わない奴を好きなわけがないのだ。
そんな言葉で表せるような感情じゃない。
「…俺は好きじゃねェよ」
ささやかな独り言は闇に溶け、俺はただ暗い空へのぼることにする。
上から見たコックの頭にも俺の頭にもすっかり雪が積もっていた。顔を埋めた毛布からはやっぱり煙草のにおいがして、吸い込むだけで胸がいっぱいになった。肺を満たす以上に、もっと奥がじんわりとした。
書いた日090422 死んでも認めてやらない・一緒にいることの証明・変わりゆく己の端々