快楽、その先
前編
雨の音がする。微かにだけれどしとしとと音がする。
この様子じゃ今日は屋内練習だろう。筋トレでもするのかもしれない。でもそんなこと俺には知ったことじゃない。俺はごろりと寝返りをうちドアの方を眺めた。
今日も来るのだろうか、あいつ。
影山の下で働いていたとはいえ日本代表として世界一になったという功績を高く買ったらしく、帝国学園は俺をサッカー部の強化要員として招いた。影山のように怨恨がなくても負けたという事実は四十年も無敗だったプライドを傷付けたらしい。帝国学園は以前にも増してサッカーに力を入れるようになったようだ。俺はそこにうまい具合に使われる、というわけ。
俺にしちゃあ渡りに船。愛媛の学校なんかまったく行ってなかったし家にも帰っていなかったような有様だからこそ影山についてきたわけで。そこに寮の部屋と三食、制服まで用意してくれるというのだ。衣食住が一気に揃うその話は東京での居場所もなく愛媛に帰っても何もすることのない俺にはちょうどいい話だった。
承諾して、部活に顔を出すと当然いい顔はされなかった。真・帝国学園として源田や佐久間を駒として使ったことは知れているらしいが、同時に世界大会での功績も知れているらしく、サッカーを単純にしている分には誰も何も言わなかった。ミニゲームでは指揮もさせてもらえたし、それでチームメイトと諍いになると仲介したのは決まって佐久間だった。
佐久間は代表に選ばれた当初とは態度が違う人間の一人だ。あの時は以前の遺恨もあり敵視していたようだが、世界大会を通して俺への認識を変えたらしい。別にだからといってありがたいとも思わなかったが、面倒事がいちいち減ってくれるのは楽だとくらいには思った。
入って一ヶ月くらいはそんな風に曖昧にやっていた。サッカーをやっているだけで食事と寝床がついてくるなんて、こんな楽でたのしいことは早々ない。爽快な日々だった。
誤算は後からやってきたのだ。
鬼道有人。そいつは俺にとって目の上のたんこぶでしかない。俺と同じタイプのMFだ。ポジションどころか役回りもかぶっていやがる。つまり嫌でも争わなくちゃならないってことだ。
奴が帰ってきて俺のポジションは二番手になった。別にサッカーをしてりゃあ暮らしの不自由はないんだから構うまい、とも思ったが、俺はそれ以前に一つ引っかかっていることがあった。
俺は多分、鬼道有人が嫌いだ。
偉そうな口振りが俺の暗い部分を掻き混ぜるのかもしれない。影山との一件が終わってから奴の態度もまた変化した。俺に柔和になったというか、理解を示すようになった。でもそれも納得がいかない。俺の何を理解したっていうんだろう。
例えば生きてきた道を知ったとして俺が何を感じているかなんて知るわけもないし、戦法を理解してもそれを弾き出す頭ん中がどうなっているかなんて開いてみたって解りっこない。
結局のところ俺を理解できるわけがないのに、そんなつもりになって居やがる。その顔が憎たらしいのかもしれない。
佐久間に感じる苛立ちもそれに似ていた。プレーを理解したからって俺を理解したつもりになるなよ。クソ。
理由は二つある。
ひとつは鬼道有人の率いる帝国サッカー部で練習するのがうざったいこと。すぐに小言をいい、楽しそうに俺のプレーを認めてくる。あの態度が鬱陶しいのだ。
もうひとつは、雨で屋内練習だから。俺はちまちましたトレーニングだとか戦略シュミレーションだとかをみんなでやるのは好きじゃない。そんなもん各自でやっとけ、と思う。
そういうことで、俺は練習をさぼることにした。
最初の日は居留守を使った。それは三回ほど効果があったが次からはだめだった。
「やっぱり居るじゃないか」
そう言って鬼道は部屋に入ってきた。帝国学園の寮には鍵がついているが寮長か何かに交渉して鍵を手に入れたんだろう。これだから優等生は外面がいいことを利用していてむかつく。
「んだよ。勝手に入ってくんな」
「お前が悪いんだろう。練習に出ろ」
淡々というもんだから余計むかついて俺は布団をかぶって見え見えの嘘を吐いた。
「腹いてーから無理」
毎回やってくるのは鬼道だ。晴れている日は練習に出るから小言を言われる。ほとんど聞いていないがムカつくのでそのまま帰ったこともある。そういう態度にでるとまた次の晴れた日は言わないけれど、雨の日にさぼるとやっぱり鬼道がやってくる。
あんまりにも同じような問答が繰り返されるもんだから「たまには佐久間でも連れてくれば?」と言うと「佐久間はお前と違って練習しているから手を煩わせるわけにはいかないんだ」と嫌味で返してくる。やっぱり苛ついて枕を投げた。投げた枕がどうしたかは知らない。顔にでも当たっていれば清々するのに。
雨が降っていた。梅雨のせいか、昨日から降り続いている雨だ。しとしとと音がする。カーテンが閉まっているせいで見えはしないが、音だけがする。その音と心臓の音が聞こえる。
そこに混じってくる微かな足音。遠いそれは近づいてきて、やがてドアノブを捻るガチャという音になる。
「不動」
その声は知っている。俺は目を瞑ったまま答えた。
「何」
「練習には出ろ、お前だって困るだろう」
ぱちりと目を開けると思ったよりも近くに鬼道は立っていた。ドアの前あたりかと思っていたのにベッドから一メートルもない場所に居る。見上げても薄暗い部屋の中、ゴーグルをした奴の表情は読めなかった。
「俺がいなくて困るのはテメーらだろ?」
口の端だけで笑うと鬼道は溜息をついた。
「これ以上さぼると幽霊部員にされるぞ。そうしたらここにも居られなくなる。それは困るんじゃないのか?」
確かにその通りだった。サッカーをしない俺は帝国学園に必要ないものだろう。養う必要もないわけだ。追い出されたらどこへ行けばいいんだろう。今となっては愛媛にすら帰る場所はない。
いよいよもって橋の下暮らしか、と思ったところだった。
「俺としても、お前が居ないのは少しつまらない。部活に出てくれ」
カーテンの隙間から入ってきた曇り空の光。それで一瞬だけゴーグルの中身が見えた。切れ長の目がその言葉を裏打ちしていた。何故だか俺は鬼道の言葉に他意がないと解ってしまった。
そのとき感じたのは苛つきだったのだろうか、それとも優越か。とにかく、何かいつもとは違っていた。命令口調ではなく懇請。仕方なしにではない意思を感じる言葉。求められることの快感が甘く胸を貫く。それなのに反感が心を支配する。
それでも一瞬だけ、その感情が何かわかった気がしたのに。
ゴーグルの中身と同じようにすぐにまた暗くなって見えなくなった。
どうせ、こいつも俺のことを駒と思っているんだろう。サッカー部に必要な駒。無ければ戦力が減ってしまう。だからこそキャプテンのお前が一々呼びに来るんだろ。それでも俺の位置は決まっている。一流のお前を見上げる立場だ。そんな奴、本当に必要なのかよ?
試してやろうと思った。言葉と瞳が本当なのかどうか。
「なあ、だったらひとつ、頼み聞いてくれよ」
笑え。笑って言うんだ。
「何だ?」
俺は下げられている鬼道の手を掴んで引き寄せた。大した抵抗もなくそれはすぐそばまで来る。
その手に頬擦りしながら俺は笑った。
「セックスしてくれねェ?」
気色悪がられてもう近寄ってこなくなるだろう。そうすればお前には俺がどうなろうと関係ないんだろ――そう思って、言ったのに。
あろうことか鬼道は俺の手を握り返して、
「したら練習に出るんだな?」
と言ってベッドに乗り上げてきた。予想外の展開に身を引いたのがいけなかったらしく、その隙間に体を寄せられて俺は身動きが取れなくなった。
「おい、マジかよ…ッ」
鬼道の手が触れる。俺は言い出した手前引けない。ゆっくりとした動作なのに俺の逃げ場は存在しない。
「すまないが俺には経験がない。うまくいかないかもしれないが…」
俺を下敷きにして鬼道は言う。
「努力する」
結論は小学校で習う。突っ込んで出せばいい、それだけ。でも俺はその手順をよく知らなかった。自慰はできる。でもセックス自体については前戯ってやつをするのは知っていたが具体的にそれが何かは知らなかった。
「おいっ何でそんなとこ舐めんだよ…ッ」
腰、腹、背中、太腿に腕。色々なところをまさぐったと思ったらどういうことか鬼道は俺の乳首を舐めた。女みたいに膨らんでいるわけでもないのに。答えないままそこをちゅくちゅくと舐めて、そして油断していた反対側をぐりっと押された。
「ッ ぅ、ん…!」
「痛いか?」
「ったく、ねえ、けど…」
喋っている間にもぐりぐり押したり引っ張られたり。そのたび俺は知らない感覚に体をびくつかせていた。それでも鬼道は止めない。
「ん、っぅ、そこばっか…ッ」
一応聞いてはいるらしい。鬼道は顔をあげると俺の顔をじっと見る。その顔にもうゴーグルはない。最初に口を塞がれた段階でもう外されていた。
「ッぁ!」
軽く股間を撫でられて意識が急に浮上する。さっきまでのふわふわしていた感覚が一気に鋭敏に働きだす。鬼道の手は簡単に俺のハーフパンツに侵入していきすぐにそこに辿り着いた。最初は撫でていたがそのうちぐにぐにと揉まれて俺の息はすぐに荒くなる。
人にされるのは自分でするのとまるで違っていた。同じようなはずなのに喘いでしまうほど気持ちいい。鬼道に触られているということも忘れて俺は声を漏らした。しばらく抜いてなかったせいだとか自分に言い訳をして。
「う、っく…あ…きど…もう無理っ…」
いつの間にかパンツも下ろされて少し寒いと思ったが体の中は熱くて仕方ない。はあはあ息をしながら俺は鬼道の制服の裾を引っ張った。どちらも男だ。何が言いたいのか簡単に伝わり鬼道の手つきは速くなった。俺は耐えきれず他人の前でイッてしまった。
嫌がらせのつもりで言っただけだ。俺は男同士のセックスの仕方なんかこれっぽっちも知らない。どこで仕入れたのか鬼道は熟知しているらしく、見た事もない場所をじっくり弄くられ嫌っていうほど時間をかけられた。いよいよもって鬼道が入れようとしたとき、俺の引き返せないという意地を越えて最後の葛藤がそれを邪魔した。
「なんで…俺の言う通りにしてんだよ」
鬼道は何も言わなかった。そのかわり硬いものがぐぐぐと押し込まれて、未知の感覚に声をあげるしかできなかった。
疲れて眠れてしまえばよかったが、ぐったりとするだけで体に異常はない。だが甲斐甲斐しく服を着せてくる鬼道に何か言う気力はない。俺はされるがままになりながらゴーグルをしていない鬼道の顔を見た。
「練習戻んの?」
「お前も…いや、今日はいい。寝ていろ」
一応気を遣ってはくれるらしい。どうせ出る気も無かったが寝ていられる大義名分ができてラッキーではある。引き換えにした体力は練習の半分くらいだった気がするが。
鬼道は立ち上がる。こっちはほとんど服を脱いでなかったから直すところもない。再びゴーグルをする様をじっと見た。
そんなに俺を部活に出したいのだろうか。あんな労苦を背負ってまで。面倒なだけじゃない、生理的精神的にも苦痛だろう。鬼道有人の考えることはまったくわからない。
世界大会のとき。あのとき、フィールド上では確かに解ったと思ったのに。
部屋を出ようとする鬼道の背中を見て、何か言おうと思った。けれど言葉はなく俺はただ見つめるだけ。振り向けば、何か思いつくかもしれないのに。奴に振り向く様子はない。
ドアの前まで行くと、鬼道は立ち止まった。ノブに手をかけたまま、ただ黙っている。奴も俺と同じで気まずいのかもしれない。冗談で終わらせるところがわからなくなって止まれなくなっただけの行為。そんなもんなんだろう。忘れようぜと言ってやったほうがいいのか、と思ったところだった。鬼道が振り向いたのは。
普段の通り、あの赤い瞳はゴーグルの奥、見えやしない。
「お前がその気がなくて言っているのは知っていた。それでも…俺は付け入りたかったんだ」
一瞬だけ、その隠れた赤が見えた気がした。
「部活には出ろ。そのくらいしか俺たちが気を合わせることなんかないだろう?…俺はお前が好きなんだ」
目が嘘じゃないと言っている。俺の体は強張っているのに脳だけが熱くぐるぐると煮えたぎる。言葉が、重い。何か言わなくちゃ。それだけ思った。ピッチではあんなにも動く頭がこのときばかりは全く正常に作動しなかった。
「…それって、どういう意味だよ…」
それじゃまるで。俺の嫌がらせは鬼道に取っては嬉しい誤算で。部活に出ろと口うるさく言うのは俺と関わりたいからで。俺のことが好き?
それじゃまるで。恋じゃないか。
「そういう意味だ」
たったひとつの答えを確信にして、鬼道は出て行った。
後編へ続く