儚く頼りない
遮光カーテンの隙間から日差しが部屋の隅を照らす。暗く沈んでいる眠りを切り裂くみたいだ。
ふ、と目覚めたままにベッドを抜け出す。それでも隣の寝息が止む事は無かった。起きたらもう少し温かさに包まれていてもよかったのに。隣の体を抱いて。
だがそうすれば夢中になってしまうだろう。名残惜しく寝室を出た。
「鬼道クン、目玉焼きでいい?」
「ああ。あとベーコン食べたい」
「へいへい」
料理担当の俺は毎朝食事をつくる。朝だから大したものは作らず大体トーストとかサンドイッチとかパン類に卵とかサラダ。俺たちは食事に頓着する方ではないので文句も不満も出てこない。
ベーコンをフライパンで焼き、上から卵を落とす。じゅう、と音をたてて白身は固まっていく。水を入れて蓋をした。
「今日、夕飯は?」
「食べる」
キッチンから出てダイニングへ盛りつけられた皿を運ぶ。往復している間、鬼道は手慣れた様子でネクタイを締めていた。臙脂色に純色の赤がストライプに織り込まれている。素材はシルク。俺には分不相応な高級店だった。鬼道が選んでくれと言うので指差した物。そんなこといちいち覚えているのもどうかと思うが、俺はあの時鬼道が嬉しそうに口元を歪ませたのすら覚えている。
「そういえば、佐久間がたまには飲みたいと言ってたぞ」
席について食べ始めるなり出された名前に俺は眉を顰める。
「そりゃあ鬼道クンと飲みたいって話だろーが。俺まで巻き込むなよ、つーか俺が行ったら修羅場じゃねえの」
佐久間は熱烈な鬼道信者だ。中学から今までずっと佐久間の隣をキープし続けてきた。それなのに急に出てきて鬼道を奪った俺を許すわけがないのだ。チームメイトだった頃はまだサッカーという緩衝剤が俺たちの仲を保っていただけで、それが無くなってしまえばお互い邪魔者でしかない。鬼道。このファクターを通してだけ奴が見えるだけ。
話を取り合うつもりもなくトーストにブルーベリージャムを塗った。濃紺がべたりと伸ばされる。
「そんなに佐久間が嫌いか?昔は普通に喋っていただろう」
やや困ったような目をする。今はそれを遮るものがないから素で視線に刺されて居心地は悪い。責められているような言葉に苛立った。
「嫌いもクソも何の感情もねーよ。ただ…もう昔とは違うってだけ」
真・帝国の時も、日本代表の時も、俺の感情は変わっていない。あいつはただのチームメイト。勝利のために使う駒。
それが変わったのはお前のせいだよ。
俺が鬼道を意識した時から既に変わっていた。ただ鬼道の隣にいる、それだけの奴だったのに。それが邪魔者だと認識するようになったのは全部たったひとつの原因だ。
「何が違うんだ?」
おそらく鬼道は純粋な疑問として準備もなく答えを待っている。気付かないことにもムカついたが色恋沙汰には天才振りを発揮できないのだから仕方ない。
「鬼道クンがァ」
「俺が?」
「俺のモノになったから佐久間は気に食わねーんだよ」
鬼道はぽかんとすると内容が読めたらしく徐々に照れたような、困ったような表情をした。それでも言わせたのだから聞いてもらわなければならない。
「隣を独り占めしてたのに、急に盗られたんだし」
「べ、べつに佐久間は…」
「俺みたいに鬼道クンが好きなわけじゃないとしても、俺より鬼道クンと一緒にいると思うとムカつくんだよ」
「……すまない…」
淡々と食べながら喋る俺を怒っていると思ったらしい。視線を向けると思ったよりもしょんぼりしていた。別に悪いことなんて一つもしてないのに謝っている。俺は可笑しくなって笑った。
「もう慣れてっからいーけどよ。佐久間に襲われても浮気すんなよ?」
冗談めかして聞いたのに鬼道はいやに真剣な表情で頷いた。
と、そんな朝を過ごしたのは何時だったか。
目の前のソファで鬼道は膝を抱えて座っている。スーツも脱がずにただ俯いている。
「…何。何かあったの」
どうも落ち込んでいるらしい鬼道は帰ってくるなりいきなり無言で沈みだした。鬼道はそんなに感情の起伏が大きくない。喜びも悲しみも自分の中で控え目に処理してしまう。しかし怒りは抑えられないらしく手が出ることも?々。だがこのパターンは慣れないもので対処に困っていると鬼道がやっと顔を上げた。
「……」
それでも何も言わない。絶望を溜込んだような顔をしてこっちを見てくるだけ。
「だから、何だってんだよ、口使え」
焦れったさに苛つき、嫌な空気に妙に緊張していた。最悪な想像が頭を過る。どうかそれだけは言わないでくれ。そう願いながら促すつもりで鬼道の髪に触れた。
するとますます項垂れてしまい、俺は慌てて頬を両手で引き上げる。
「ッ…すまない…」
その言葉の意味が俺の脳味噌に直接響いた。刃物で貫かれたみたいに胸が痛くて声が出ない。
「何がだよ…何に謝ってんだよ!」
わかりきっているのにもしもを探して荒ぶった。肩を掴むと鬼道はあからさま怯えた表情を見せる。今にも泣いてしまいそうな目をしていた。でも、俺だって泣きそうだ。
悪い未来を想像したことがないわけじゃない。そんな可能性は俺たちみたいな不安定な関係にとって常に隣にあって、二人ともそれを見ないふりして繋がっているだけだ。だからどちらかの都合で容易く切れてしまう。
「佐久間と」
疑問符が飛んだ。なぜここで佐久間が出てくる?
「さっき、飲んでいたんだ」
ますます疑問符。それで謝る必要はないだろう。別に俺は束縛家じゃないし、いくら佐久間だからって飲みに行くくらいで目くじらをたてたりしない。
先を促すために黙る。鬼道も言いにくいのか黙っている。
どうも俺の思考は杞憂のようで、いつまでも硬直しているのも馬鹿らしいので鬼道の隣に座った。
「それで?」
背中を撫でてやると鬼道は余計項垂れた。
「佐久間がすごく酔っていて、俺も結構酔ってしまって」
確かに佐久間は酒豪ではない割によく飲む。そして酒癖が悪い。源田が居ればお守りをしてくれるが二人で飲みに行ったのなら助けは入らなかっただろう。
「タクシーを呼んだんだ」
今はちょうど日が変わったくらいだから終電が無かったんじゃなく歩けなかったのか。鬼道は酒に強くないしすぐに酔っぱらうタイプだ。佐久間を介抱するのはおろか俺を迎えに来させることも判断できないくらい酔ったのかもしれない。それにしては今は醒めているみたいだ。帰って即寝そうなものなのに。
「…」
ぽつぽつとした独白が途切れた。言いにくいのだろうか。
「鬼道クン、言えよ。聞くから」
鬼道はやっと顔をあげた。その顔は辛そうに歪み、涙が零れていた。
「ぇ…なんで泣くの」
感情で泣いている鬼道なんて一度しか見た事がない。あの男が死んだ時以来だ。あれは見られたもんじゃなかった。普通の顔をしているのに心が泣いている。俺には泣き顔だけが映った。
そんな風に泣く理由がどこかにあるとすれば全て壊してやりたいと思ってしまう。
「…怖いんだ」
赤が見つめてくる。濡れた頬を拭ってやると所在無さげに瞳が揺らいだ。
「何が?」
「お前に嫌われたくない」
「なんで俺が嫌うんだよ」
唐突すぎる。脈絡が読めない。鬼道は本来こういう話し方をしない。理路整然としていて冷静だ。だから相当混乱していることは間違いないが、そのセリフは心外だ。
俺が鬼道を手放す理由はない。
鬼道はまるで勝負でもしているようにこちらを見つめ続けた。涙目も構わずに。
「タクシーで、佐久間に抱きつかれたんだ。俺はなんだかよくわからなくてぼーっとしてて」
なんとなくその先が読めた。それでも必死そうなので鬼道の言葉を遮るつもりはない。
「その…キスされてるのも、よくわかっていなくて…肌を触られてやっと意味がわかって」
ありったけ優しそうな声で言葉を紡ぐ。俺をこんな態度にさせるのは世界でも鬼道有人ただひとりだと思う。
「それで?」
「突き飛ばしたら佐久間が窓に頭ぶつけてそのまま寝た」
「ぶっ」
その光景を想像してつい笑ってしまった。鬼道は驚いた顔をして俺の両肩を掴む。
「お、怒らないのか?」
怒ってないと言えば嘘になる。でもそれ以上に俺は喜んでいた。
口約束のような束縛を鬼道は大事に守っていたのだ。俺のために。
「まあ佐久間の酒癖は今に始まったことじゃないし。鬼道クンが酔ってたのもあるし。最後までしてねーなら、なんとか許す」
普段偉そうに言うと罵声が飛んでくるのに、鬼道は余計にぼろぼろ泣く。
「怒らねーっつってんじゃねえか」
本音ではないにしろ鬼道を泣かせているよりはマシだと思った。それなのに鬼道は泣き止んでくれない。じっと待っているといきなり首に縋り付かれた。
「もう、終わってしまうのかと…思って」
小声だが耳に近いので完全に聞こえる。
やっぱり俺たちは不安定だ。未来なんか見えないし終わりだって唐突で。俺も鬼道も見えない刹那に怯えている。
抱き返して俺も小声で言ってみた。
「簡単に終わらせんな。俺、鬼道クンなら奪い返すし」
鬼道の背を抱く力が強くなり、顔を肩口に押しつけている。その頭をぽすぽす叩いてやりながら、佐久間は抹殺しようと思った。
書いた日110815 後悔・糸よりも弱い・意思だけがすべて