冒険の鍵、海の青



 海軍の追手は見あたらない。誰もいない路地裏。曇天のせいで真昼だというのに薄暗い。
 仲間は全員、船に辿り着いただろうか。サンジはいつの間にか火の消えてしまった煙草を吐き捨てて空を見上げた。
 今にも落ちてきそうな空だった。
 「…どうしたもんかね」
 頭上で呑気な鳥がピチチと鳴いた。









 この島に着いたのは正午を過ぎた頃だ。とりあえず市場を見て回って保存がきくものを買っておいたのは正解だったといえる。そのあとすぐに海軍に包囲されたからだ。
 街に出ていたのは面子の半分。ログは三時間と先行して情報を持っていたから必要なものを買い出すだけのつもりだった。ルフィはナミさんにくっついてきて、ゾロは俺が荷物持ちに呼んだのだ。
 キナ臭い島ではなかった。けれど海軍の中継基地がある、そこそこ栄えた島だ。もしや港に伝令が居たのかもしれない。とにかく、俺たちは抜き差しならない状況になり仕方なく暴れることにした。
 その場にいた海軍を文字通り蹴散らし、ルフィとナミさんは一直線に船へ、ゾロとチョッパーは別ルートで船に向かい、俺は撹乱のために逆方向へ走った。お互い作戦を立てたわけじゃないから行動は把握しきれないが、こういうときの役割ってのは大体決まっているのだ。
 俺の心配はゾロに全部押し付けてあった食糧にしかない。
 「テメェそれだけは死守しとけよ!」
 言い捨てた声に反論はなかった。
 まあしかし、俺の走っていった方向が悪かったのかもしれない。向かう道は基地へまっしぐらコース。撹乱という意味では成功しているが海軍の密度はどんどん増えた。
 こうやって路地で新しい煙草を吸っていられるのが奇跡に近い。
 おまけにどこかで擦ったらしく左腕が派手に破けている。垂れる血痕で居場所がバレるのも時間の問題だろう。
 「いたぞ!」
 やれやれだ。




 走って飛び越えた垣根の向こうにはガキが居た。
 いや失礼、小さなレディが居た。それとのろまそうな番犬。
 「…吠えないでくれよ」
 どうやらでかい邸宅のようだ。金持ちのにおいが漂う敷地内はきれいに整備されている。緑の芝生はどこかの剣士を思わせた。そこに落ちる血はさぞかし映えるかと思いきや、黒ずんで地面に吸い込まれ思ったより目立たずに消えた。
 「あなた、誰?」
 すぐ脇をどたどたとむさ苦しい男共が通り過ぎていくので俺は思わずしゃがみ込んで唇に指をあてた。しーっ。その合図で彼女は何か悟ったらしい。
 「追われてるんだ。静かにしててくれないかな?ちょっとでいいから」
 のろまそうな大型犬――レトリバーだろうか。太めだが。毛足が長いやつだ――はひとつも動きやしない。女の子の足下で伏せたまま俺をちらりと一瞥するに終わった。
 門に辿り着いたらしい海兵がお尋ね者を探している旨を女中に伝えているのが見える。俺はなるべく身を低くして彼女に向き合った。
 「あなたが海賊なの?」
 「そうだけど、君に何かしようってんじゃないから黙っててくれるかい?俺は船に戻りたいだけなんだ」
 略奪や暴力のためにここに踞っているわけではない、と両手を軽く上げることで表示してみるが、通じるだろうか。あげた腕がじくりを痛むのを顔にださないように、俺はむしろ笑ってみせた。
 俺に合わせてくれたのか、どこか無表情に近かった彼女は少しだけ笑い、首を振った。
 「言ったりしないわ」
 その笑顔がどこか、以前のロビンちゃんに似ていると思ってしまった。
 だから俺は少しだけ仲間に迷惑をかけることにした。
 「君はここで働いてるの?」
 彼女の格好はどうみても令嬢ではない。おそらく制服だろう、少し生地が薄くなりかけているワンピースを身につけていることからみても奉公人だ。
 「ええ、今はお嬢様の飼っている犬の世話をしてたところなの」
 「普段は何を?」
 「屋敷の掃除とお嬢様の遊び相手、あとは厨房の下働き」
 はっきりと答えるが彼女はあまり表情を変えない。サンジはなるべく笑っていようと思った。警戒心はなさそうだが子供には下手に出た方がいいだろう。
 実を言うとサンジは子供が苦手だった。大人とは嫌というほど接してきたが小さな海上レストランではいつでも自分が一番年下で、自分より若いコックが入ってくる年になってもそれは子供の域ではなかったのだ。海賊家業を始めてからはちゃんと接する機会もない。よって子供というのはサンジにとって未知の生き物である。あのガキくさい船医だって一応十五だ。
 「俺はサンジっていうんだ。海賊で、コックやってる。君の名前は?」
 交流の基本は自己紹介だろう。
 「…あたしはニナよ」
 仲間と自己紹介をした記憶はないがとりあえず成功したようだ。



 ニナは茶髪の小さな女の子だった。年の頃は俺があの遭難を体験したくらいだろうか。それにしては体つきが細かったが奉公人の待遇だから食生活が整っていないのかもしれない。
 「海軍の奴らがいなくなるまでここに居させてくれないか?」
 そう頼むとニナは「ここじゃすぐにばれちゃうわ」と言って屋敷の中へ入れてくれた。
 といってもそこは屋敷の主なら立ち寄らないような薄汚れた倉庫で、薄暗い中に木箱や樽が立ち並ぶ中だ。どう考えても食糧倉庫である。
 「ありがとう」
 「怪我はいいの?」
 「ああ、このくらい平気だから」
 血はほぼ止まっている。固まった塊がぱらぱらと落ちるくらいならバレないだろう。
 控えめな彼女の気遣いを丁重に断りながらも俺の思考は船の仲間に飛ぶ。無事に辿り着けたとして彼らは今どこに居るだろうか。港は封鎖されているはずだ。船は一度沖へ出たか、俺を置いて行ったか、身を隠しているか。
 俺の予想通りだといいのだが。
 「ニナ、夕食の準備は何時から?」
 「四時半に下拵えが始まるわ」
 時間は存分にある。



 ジャケットを脱いで腕まくりをする。ここの料理長には悪いが少々聖域を荒らさせてもらおう。とはいえ、あまり整備がよろしくないから仕事に対する情熱は褒められたものじゃないな。俺なら使った厨房を汚いままにしておいたりしない。パン屑が落ちた銀色の表面をさっと拭う。
 「サンジ、コック長に叱られちゃうから――」
 「平気さ。ニナは今ここにいる時間じゃないだろ?」
 「そうだけど…」
 「まあ、見てろって」
 食糧倉庫から失敬してきた米を洗う。具材を切って一緒にフライパンへ放り込む。炒める。割る。混ぜる。
 「わあ、サンジ、すごい…」
 ちらりと見た彼女の顔は驚き一色だ。誰かの前で料理をするのはこういう顔も見られるのがいい。
 調理はあっというまにクライマックス。熱したバターの上に卵を流して、ぐるぐる、とんとん。皿に乗っけてある炊き上げた赤いライスの上にふわりと乗せる。
 「ほら、できた」
 ニナの前に置いて、黄色の表面を薄く切り開いた。
 ほわり、と湯気が立つ。
 「食べていい?」
 「もちろん。ニナのために作ったんだ」
 「いただきます!」
 勢いよく食べ始めた彼女に水をいれて、俺はシンクに寄りかかった。煙草に火をつけても彼女は気付いていないようだ。
 そこまで夢中になってくれると作りがいがあるもんだ。その作りがいは毎日感じているので俺は幸せなコックなのだろう。



 ごちそうさま、というあたり、ニナはそれほど低い出身でもないのかもしれない。少なくともうちの船長より食事のマナーはできている。
 「クソうめェだろ?」
 「今まで食べたもので一番美味しかったな」
 そりゃあ何より。
 俺は三本目の煙草を缶に捨てた。
 「いまの、オムライスっていうんだ」
 きっと彼女にとっては知らない料理だろう。俺もガキの頃、好きだった。でも客船ではコックたちが作るのを見てばかりで、レストランでは作ってばかりだった。食ったのは何回かだけ。遭難したときに食いたいなあ、なんて思った気がする。
 「じゃあオムライスが好きになったわ」
 軽くはにかんだニナはとても美人だった。









 「サンジ、行っちゃうの?」
 ニナの足下にはさっきのでかい犬が伏せていた。忠誠を誓う犬の態度ではなく寝ているだけのふてぶてしさがどこかの剣士を思わせる。あいつも動物だったらこんな生活をしていそうだ、と一人ほくそ笑んだ。
 「ああ。仲間のところに帰らなきゃ」
 食糧は無事に辿り着いただろうか。ひとつでも欠けていたら殴ってやらねばなるまい。鉄拳制裁、いや俺の場合は鉄蹴か。
 怪我は次第に熱をもってきていた。倒れるほどじゃないが患部周辺がじんわり熱い。そこをそっと擦ってみてから、ニナを振り返った。
 「料理長が何か言ってもしらんぷりしとけよ?」
 「うん」
 「俺のことは内緒な」
 「うん」
 いい返事に気をよくした俺はニナの茶色い髪の毛を撫でた。ほわりとした質なのに油と埃で固まってしまっているそれが働いていることの証のようで、優しい気持ちになる。昔の俺も調理場で働いていた。泥で顔を汚しながらじゃがいもを剥き続け、山のような洗い物を処理しまくって毎日過ごした。ニナはそれに似ている。
 腰を折って視線を近くしていると汚れていてもニナが美人に育つことは見て取れた。撫でている手を止めないまま、にっと笑ってみせる。
 「ニナが綺麗なレディになったら一流コックのディナーを約束するぜ。食いに来いよ」
 海に出ればいい。世界の海のグランドラインだけでもこんなに広い。小さな島の大きな屋敷の中で、意味もなく汚れている必要はないのだ。俺は汚れない中で生きながらも汚れる世界に憧れていた。飛び出した今は海賊なんかやっていて、正義の海軍に追われて血を浴びて暮らしている。けれど後悔はない。広い海の真ん中で楽しく生きている。
 ニナだって、海に飛び出したらいい。
 「うん。サンジはどこにいるの?」
 見上げてくる髪色よりも濃い色が俺を見る。ナミさんの瞳の色に似ている気がした。
 「俺は…」
 定住地を持ってないし、もしかして陸に居たり空に居たりするかもしれないので少し考えた。だけどそう簡単にオールブルーは見つかるまい。だったら答えはひとつだ。
 「麦わら海賊団に居るよ。もしかして海賊王のクルーになってるかもしんねェ」
 ニナが大人になる頃。ルフィはワンピースを見つけてるかもしれないし、ゾロだって鷹の目を倒しているかもしれない。俺が生きてるとも限らない。
 でも、俺はルフィに付き合うと言った。だったら死ぬまではあいつのコックで居てやる。
 「海は広いから簡単には会えねェかもしれねえな」
 「…もう来てくれないの?」
 「俺は海賊だからなァ」
 答えになっていないが、うちの船長に言わせれば海賊は冒険と宝のあるところへ行くもんらしい。この島に再び来る約束はできなかった。








 この島はすべりだいのような形をしている。浜辺と港がある方向からずっと坂道が続いていて、そこに街並がある。漁師なんかは下のほうに住んでいて、海軍基地がてっぺんにあるためその庇護を受ける富裕層は上のほうに家がある。
 ニナの働く屋敷もてっぺん近くにあった。つまり俺はずっと坂をのぼってきたことになる。
 ちなみにすべりだいの階段に当たる部分はない。てっぺんからすぐ先は断崖絶壁になっている。島に近づく際にナミさんが言っていた。
 「ありがとな、匿ってくれて」
 「ううん。オムライス作ってくれたから」
 懸賞金七千七百万の価値があるオムライスを作れるのは俺くらいだな。
 そう思って笑った。



 「林を抜けたから、ほら、もう見えるわ」
 疎らに木が並ぶ道を抜けると一気に視界が開ける。その青いっぱいの明るさは懐かしさすら覚えた。海育ちの俺にはやっぱり陸地よりも海と空の色のほうがずっと馴染んでいる。
 道案内をしてくれると言うのでニナを背負いながら海軍に見つからないように一直線に走ってきた。本当なら屋敷から連れ出すつもりはなかったのだけれど、邸宅が多い上、海軍基地も近いだろう場所から土地勘もないのに騒ぎを起こさずに出て来れる自信がなかった。屋敷の周辺について尋ねる俺にニナは自ら連れていくと言ってくれたのだった。やっぱり将来が楽しみである。
 軽い身体を地面に下ろす。
 「おー、すっげェなあ」
 「ぜんぶ青だね」
 目の前は薄い境界線を隔てて濃度の違う青色が支配していた。
 「じゃあな」
 「…ありがと、サンジ」
 別れはいつだってこういうものだ。少ししんみりとしていて潔い。俺はもう一度ニナの頭を撫でた。
 「こっちこそありがとよ。またな」
 俺は五歩、思いっきり走った。
 そして目の前の青一色に飛び込んだ。
 その瞬間だけは空の青も海の青も、全部混ざった気がした。





 「――ゥのぉぉぉ風船!」
 宙に浮いていたはずの体が何かにぶつかった衝撃でもう一度重力を無視する。飛び上がった体は一回転してまた落ちていく。
 「ルフィ!もう一回飛ばしてどうすんだ!」
 聞き覚えのある声がする。
 俺は混ざる青色を見分けられず上だか下だかわからなかったが、とにかく船の色を目の端でさがした。
 薄らと見えるそれに引っ張られるように体は落ちる。その方向になんとか足を向けて、俺は落下に耐えるための体勢を整えた。
 目指すはゴムの塊だ。
 船を壊しては船大工に怒られてしまう。
 「クソゴム!しっかり受け止めろよ!」
 どんどん近づく芝生の緑に狙いを定める。
 手を広げた男が視認できた。と思ったら目の前は一瞬暗くなった。








 「お、気付いたぞ」
 何人か見覚えのある顔がのぞきこんでいる。
 空の明るさと太陽の眩しさが目に刺さる。上のほうには崖の茶色も見えた。
 数秒だけ気を失っていたらしい。
 起き上がると今さっき飛び降りた場所が遠くの空に浮いて見えていた。
 「おぉ…随分高ェところから落ちたなァ」
 「っつーかよく生きてるよな」
 「だな」
 ウソップの呆れ声に納得しつつ、俺はルフィを探した。
 「帰ってきたぜ、キャプテン」
 「おう。ごくろう!」
 二人でニッと笑うと後ろで腕組みしているゾロが見えた。ナミさんを筆頭に他の面子は船の操作に行くらしい。散り散りになっていく中、ゾロだけは突っ立っていた。
 「…なに不機嫌ヅラだよ、剣豪」
 「いつもこんな顔だ」
 「ああ、確かに」
 眉間のシワの本数くらいしか変わらないな。
 酒の補給時と宴会の時は楽しそうな気がする。戦闘のときは食事をする魔獣のごとくイキイキしている覚えがあるが、まあそれ以外はこの仏頂面だ。
 「じゃあ何だよ」
 こいつが俺の方をじーっと見てるのは空腹を訴えているか喧嘩売ってるかだ。
 何のサインだ?
 「てめえ、忘れてんだろ」
 シワが増えた額を見ながら、俺は記憶を遡った。何か忘れていただろうか。随分ぐるぐると脳味噌を掻き混ぜたが、いまいちよく思い出せない。
 崖からダイブした衝撃で記憶がとんだのだろうか。
 一番どうでもいいゾロの存在を覚えているのだから俺の記憶は健常だと思われる。
 「ああ〜……なんだっけ?」
 ちょっとだけバツが悪くゾロを窺い見ると溜息をつかれた。
 「キッチン行けよ、分け方がわかんねえから全部置いといたから」
 それでやっと食糧を死守せよと叫んだのを思い出して、俺は適当に笑っておいた。
 こんな風に日常は戻るのだ。








 俺をあの柔らかな檻から連れ出した奴らがいるように、俺はニナの鍵になってあげられたのだろうか。
 それは今は誰にもわからない。この海がいずれ教えてくれることだろう。
 空の青と海の青。今は俺の立っている船を境に分かれている。上が空で、下が海だ。
 そして俺たちはこの海を真っすぐにゆく。
 出会うとするならば、そこでだ。





書いた日090609  サンジと女の子、冒険の扉を開ける鍵